マロニエやプラタナスなどの落葉樹に新緑が芽吹き始めた五月。
外の景色はこうも晴れやかで清々しいものの、エリセはどんよりとした面持ちで窓辺に佇んでいた。
夜会シーズン真っ只中ではあるが、状況は絶望的だった。
めぼしい男は皆揃ってこの冬の間にパートナーができていた。
都市部の侯爵家の嫡男も、公爵家の嫡男も、第二王子に至っても……自分が昨年アプローチをして売り込んできた殿方たちが揃いも揃って婚約発表したのである。
もはや見合いでもした方が早いだろうか。エリセはそう考えるがすぐに首を横に振る。
(だめだめ。だって、見合いとか言って、三十代・四十代のおじさまなんて私の眼中にないもの。いくらお金持ちだとしても後妻なんて嫌だわ……)
──できる事なら二十代半ばまでの未婚。自分の家より爵位が高くて、それなりの地位がある殿方で、見た目も麗しい方が良い。
母の意見としては、三十代・四十代と若くして、妻を亡くしてしまった爵位の高い殿方を数名知っているので、後妻も良いだろうと見合いの話をしてくれたがエリセからすれば、そんなのは絶対に嫌だった。
自分の親と十歳程度しか歳も変わらない相手なんて正気の沙汰でない。
中でもエリセが重視するのは、最後の条件だ。
情けない顔立ちや背が低いだの、そんなの眼中に無い。いくら爵位が高い家の息子であろうが、それは絶対に許されない。
(だって私は美しいですもの。隣に立つに相応しい人じゃなきゃ……)
しかし、そんな殿方は本当にいるのだろうか。余っているのだろうか。そんな不安が翳る。
あるいは、自分が昨年狙っていた殿方を誘惑し婚約破棄させるべく略奪するという方法も……。そう考えてエリセは首を振るう。
(それじゃあ、まるで恋物語の中の悪役みたいじゃないの! 清く美しい私がそんな事はしたくないわ)
そんな風に考えて庭を眺めていれば、黒馬に乗った男が帰ってきた。
現当主──ソルヴィだ。琥珀色の瞳を縁取る輪郭は穏やかで、極めて優しい顔立ちの男だ。だが、馬に乗っているだけで、どうにも凜々しさがある。
猛獣騎士──これは名ばかりのように今は思う。
確かに背は高くてがっちりと筋肉質でクマのような男と思うが、顔が良い。
初対面の時にも思ったが、こんなにも良い男だと思いもしなかった。ただ、爵位が低く次男というのは気に食わなかったが……。
だが、後に知ったが彼は王国騎士団に所属し、この王国の中では三本指に入る最強の武人である。それに彼の騎士階級はかなり高いようだ。
騎士階級というのは、もはや爵位なんて関係無い。
完全に切り離されたものである。それも実力で勝ち取るものらしい。
とんでもなく勿体ない事をしたとエリセは後悔していた。
エリセがまじまじと彼を眺めていると、窓辺で見ている自分に気付いたのだろう。ソルヴィはエリセに向かって会釈した。その表情はやんわりと微笑んでくれたようにも映り、エリセの白い頬にポッと朱がさした。
──そうだ。義姉から奪えば……いいや、乗り換えさせれば良い。
エリセは自分の閃きに、たちまち目を輝かせた。
これに関しては、悪役の行動ではない、救済に違わない。
それはこの家にとって正義に違わないのだ。義姉とも認めたくもない、あの女を追い出す事ができる。あってはならない父の過去の罪……庶子を排除できるのだ。
そもそも悪役はあの女に違わない。
何やら、庶民階級出身の使用人との子らしい。
エリセは自分を愛してくれて沢山の愛情を注いでくれた大好きな父が、そんな事を隠していたのが悲しかったし許せなかった。しかしその罪を消すにはやはり、あの女を排除しなくてはならないのだ。
(彼はあのネズミを好いている様子が窺えるけれど……)
果たして義姉ノクティアはどうだろう。エリセは親指の爪を噛んで考える。
結婚式の前段階で既に、結婚は認めているらしいが、彼に愛情を寄せてはいなそうだった。かといって、不仲という訳ではない。寧ろ仲は良いと窺える。
(友愛に近しいものかしらね……)
そう思えたのは、結婚から半年以上が経過しようが、あの女が妊娠していない事だった。使用人たちの噂話で不妊ではないかと噂になっている。
エリセはハッと閃いた。
(あるいは白い結婚を貫いている……)
即ち、肉体関係を持たずに友愛関係を継続している……。
そう考えるのが自然だった。ならばそこに入り込み、あの女をこの屋敷から徹底的に排除できるではないか!
エリセは手を叩く。すると隣部屋に控えていた侍女がやって来てエリセに傅いた。
「ねぇ! 私、ソルヴィ様とお義姉様とお茶会がしたいわ! 今更かもしれないけど、二人としっかりと親交を深めたくて。取り次いでもらえるかしら?」
侍女は驚いたのか目を丸くするが、すぐに了承し部屋を去った。
……この誘いに断れる訳がない。生まれた家柄の身分もある。そして前領主の娘直々の〝お願い〟だ、断れる筈もない。エリセはそれを初めから理解しており、ほくそ笑む。
(私に勝利の女神がきっと微笑むわ!)
自分に愛を囁くソルヴィの姿が目に見えるようだった。
そしてこの屋敷を去る義姉ノクティアの姿も……。エリセは甲高い笑い声を上げた。
※
これは何かの悪夢だろうか。なぜに離れにエリセがいるのか……。
ノクティアは半眼になってお茶を啜り、正面に座したエリセを一瞥した。
領主とは言え、ソルヴィの立場が弱いのは既に充分に理解している。しかし、なぜにこんな誘いをしてくるのか……。
そうは思ったが、エリセの狙いは存外簡単に読む事ができた。否、あまりに露骨すぎた。
エリセはノクティアの事を無視し、延々とソルヴィと会話を続けていた。
そして、ようやくノクティアに話しかけたと思ったら、席を少し交換して欲しい。との事で……。
ノクティアはソルヴィの隣に腰掛けていた。なので、ソルヴィの隣に座りたいのだと分かる。
まともに話なんて聞いていなかったが、騎士団での鍛錬の話から腕の筋肉を触ってみたいなんて話だったような……。
断って癇癪を起こしても面倒くさい。
ソルヴィの面目を潰すのもいかがなものかも思えて、ノクティアは黙って席を譲った。
「お義姉様ありがとう」
エリセは礼を言うなら立ち上がり、ソルヴィの隣に座す。ノクティアはエリセの座っていた正面に腰掛けた。そんなエリセはといえば、ソルヴィの腕を触った……かと思えば横から抱き付いたのである。
唐突な行動に、側に控えていたエリセの侍女もぎょっとした表情を浮かべた。
「エリセ様……あの……」
当事者のソルヴィも困惑した表情を浮かべている。
「ごめんなさいねソルヴィ様。良い鍛え方をした筋肉って、柔軟性がある……なんて聞いた事があるけど本当なのね、とてもふかふか」
「……ありがとうございます」
ソルヴィは頬を掻き、目の縁を赤くした。
その表情を見た瞬間、ノクティアの腹の中で得体の知れぬ不快な感情が暴れた。
それは強い怒りに近しいが悔しさもあり、悲しさや寂しさも含まれていて──
抱き締めてくれた時に感じる彼の香油の匂いや、その胸板の逞しさ、髪を撫でてくれる大きな手の感触を鮮明に思い出し、ノクティアは手元のカップに視線を落とした。
(同じ事をしたら嫌だ。エリセにもしたら嫌だ……)
なぜだか寂しくなった。そんなの見たくない、これ以上こんな場面を見ていたくない。カップの中、褐色の液体に無様な顔をした自分が映る。
こんな顔をエリセにもソルヴィにも晒したくない。ノクティアはカップを置いて、席を立とうとした時だった。
「エリセ様、そろそろ離れて頂けますか?」
ソルヴィの声にノクティアは彼らを一瞥する。いまだにエリセはソルヴィに抱き付いていた。
「だめ……ですの?」
上目使いになって頬を上気させてエリセは尋ねるが、ソルヴィは即座に首を振る。
「エリセ様は未婚の乙女。私には愛する妻がいます。こうも至近距離での接触は褒められたものではありませんよ」
「でも……」
「離れて下さい」
二度目の忠告は淡々としており、その視線は冷えていた。
それに怯えたのだろう。エリセはパッとソルヴィの腕を離した。
「エリセ様。貴女が私の妻を嫌っているは存じています。複雑なお家事情もありましょうし、思う事があって当然でしょう。私は口出しもしませんし、中立ではありますが、私はノクティアを一番に優先します」
その言葉にエリセは震え、たちまち真っ赤になった。その表情にはあからさまな怒りが浮かんでおり……ぽってりした唇は歪み、拉げていた。
「エリセ様、私はノクティアを愛しています。妻に悲しい顔なんてさせたくない。お開きにしましょう」
その言葉にエリセは立ち上がり、ノクティアを睨むと席を立つ。
これまでの優雅な所作は嘘のようだった。エリセは一礼もせず、顔を赤くしたまま侍女を連れて出て行ってしまった。
「ノッティ……ごめんな。嫌な思いさせたな」
エリセが去って幾何か。ソルヴィはため息をついて立ち上がるなり、ノクティアの前にしゃがんで手を取り握りしめた。
手から伝わる彼の温かな体温に、胸の奥の氷の礫が溶けていく心地がする。
しかし、自分はエリセに嫉妬していたのだ。それにノクティアは改めて気付いてしまった。
悲しい顔……カップの中に映った自分は今にも泣きそうな顔だったのだから。ノクティアは頬を染めたまま何も答える事ができなかった。