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29 甘い香りに解されて

 ──翌日。ノクティアが目を覚ました時には、ソルヴィの姿は無かった。

 静かな朝だった。淡い日差しが注ぎ始めた始めた庭で小鳥が鳴いている。

 ノクティアは赤く腫れた目を擦って起き上がるなり、自分の部屋に戻る。ドアノブの手をかけ、開くと同時に侍女の部屋のドアが開く。


「おい。ノクティア……」


 朝一番、イングリッドは怖い顔をしていた。その後ろでは心配そうな面を貼り付けたソフィアがいた。

 ノクティアは思い出したくもない昨晩を思い出す。しかしイングリッドを怒らせるような事なんてしていない筈だ。


「……なに」

「ああいうのはダメだろう」


 そう言って、イングリッドはノクティアの頭を軽く小突いた。


「痛っ、なにするの」

「なにするの、じゃないでしょ!」


 檄を飛ばすイングリッドにソフィアは「まぁまぁ」と宥めに入る。イングリッドは眉間に皺を寄せ、大袈裟なため息をつくと再びノクティアに向きあった。


「ノクティア。確かに、あんたの母さんや伯母さんの境遇を知れば、あんたが男から愛される事や人を愛する事を怖がるのは分かるよ? だけどさ、相手を見くびるのは良くない。決め付けや勝手に憶測するのは良くない」


 見くびる。決め付け。憶測……その言葉にノクティアはぐうの音も出なかった。


 ────ノッティは俺がそんな事すると思うのか! どうして俺がこんなにも大切に思っている事が分からないんだ!


 昨晩の彼の言葉と表情がたちまち過った。

 あの時のソルヴィは今にも泣きそうだった。彼がああも表情を出す事は珍しい。あんなにも悲痛な顔をさせてしまった事に当然、罪悪はあった。


 間違いなく彼を見くびっていただろう。

 彼自身を見ずに自分の経験で決め付け、憶測で語った。彼の感情なんて考えてもいなかった。最低だ。ノクティアは表情をたちまち曇らせた。


 しかし、自分が持つ愛への嫌悪感や恐怖心を伝えるにしても、どんな言葉を選んで、どう伝えれば良いか分からない。それに、これからどんな顔で彼と顔を合わせたら良いか分からないもので……。


 いたたまれない気持ちになり、ノクティアは脚の付け根あたりでナイトドレスの生地をくしゃりと握りしめた。

 そんな様子に見かねたのだろう。ソフィアはノクティアの前に歩み寄り、困り顔で顔を覗き込む。


「ノクティア様。過ぎてしまった事です。ノクティア様がそうして悲しんでしまうと、きっと旦那様も悲しみますよ」


 そう言って優しくノクティアを励ますと、体調をすぐに気遣った。しかし傍らでイングリッドは呆れたように首を振る。


「ソフィアは心配しすぎだ。ひ弱なノクティアが朝から立って動けている時点で多分まだ〝白い関係〟のままさ」


 ──考えてみろ、あの体格差じゃ半日以上まともに動けないと思わないか?

 その言葉に、ノクティアもソフィアも真っ赤になってしまった。


 昨日の今日であまり想像したくない。

 だが、ノクティアははっきりと想像してしまった。きっとそうに違いないと。


 ---


(本当にどんな顔して会えばいいんだろう。謝らないと)


 ノクティアは朝食後、ソファでクッションを抱き締めて考え込む。

 侍女たちはエイリクに呼び出されて出て行ってしまった。完全に一人ぼっちである。


 イングリッドの話によると、ソルヴィは空が白む前に軽装でどこかに出掛けてしまったらしい。遠くから蹄の音がしたので、恐らく愛馬で出掛けたのだろうと……。


 そもそも彼は昨日の夕刻王都から帰ったばかり。遠くに出掛けた翌日はゆったりと部屋で過ごしている事がほとんどだ。

それに今の所、領主としての仕事は滞っていないと彼が王都に行く前にした些細な会話から知っていた。

 なぜそんな早くに外出を……。


 ノクティアがクッションを抱えて、考え込んでいる矢先だった。彼の部屋の扉が開く音がした。

 ゆったり堂々とした足音からしてソルヴィが帰ってきたと分かる。


 ノクティアはおずおずとドアを開いて部屋を覗き見ると、彼は鉄黒色の上衣を脱ぎ、シャツに着替えていた。


 筋肉隆々のその胸板は厚いが、肩口から広がるヒグマに引っかかれた傷跡が生々しい。初めて見たが、あまりに広い範囲にノクティアは驚き、罪悪が再び燻った。


 ────たとえノッティが誰も愛せなくてもいい。俺がずっと愛を注げばいいと思ってる。愛したいと思ってる。


 ふと思い出してしまったのはあの日の言葉だった。けれど、どうして私を。

 ノクティアが考えていた最中だった。ふとソルヴィと目が合った。


「……おはようノッティ」

「おはよ」


 まさか目が合うと思わなかったので、びっくりした。

 ノクティアが何度も目をしばたたくと、ソルヴィはたちまちクスクスと笑いを溢す。予想外だった。昨晩あんな事があったばかりなのに、彼の対応も表情も普段と何ら変わらなかった。


「まさか、着替えを見られていたとは思わなかった」

「別にそんなつもりはなかった。ごめんなさい」


 そう言って、半開きの扉を閉めて自室に引き返そうとするが、「まてまて」とすぐに彼に引き留められた。


「おいで。一緒にお茶でも飲まないか?」


 ソルヴィは穏やかに言う。断る理由も無いので、ノクティアは彼の部屋に入った。


 そうして彼は着替えが終わるなり、棚を物色し始めた。

 昨日王都で買ってきて貰ったお茶に、屋敷の厨房にあるものと同じらしいお茶。色々とあるが、彼は一つ箱を見つけて開けると、何か思いついたような顔をする。

 そうして「少し厨房に行く」と言って出て行って幾何か。鍋と杓を持って帰って来た。鍋の中にはミルクがたっぷりと。


「ミルク?」


 お茶ではなかったのか。訝しげに訊くと彼は笑みつつ首を振る。


「良い事思いついたんだ」


 そう言って、彼は暖炉の前に歩み寄ると、鍋を吊り下げ温め始めた。


「何作るの?」

「それは沸騰間近のお楽しみだ」


 少し悪戯っぽく言って彼は、杓で鍋をかき混ぜて沸騰の頃合いを待つ。なんとなくノクティアも隣で鍋を覗いて待っていた。


 それからややあって、ミルクがふつふつとした頃合いに、彼は先程の箱を取り出した。中にあったのはたっぷりのチョコレートだ。確かこれは年明け前、真冬に食べた記憶がある。まだこんなに残っていたとは。


「古めのチョコレートをこうして……」


 ソルヴィは大きな手でチョコレートを摘まむと、ふつふつとしたミルクの中に次々と入れる。そうして杓で混ぜると、茶色の液体に変わり、甘い香りが漂った。


「ノッティ、二人分のカップを取れるか?」


 ノクティアは頷きカップを取る。ソルヴィはそれを受け取り、茶色くて甘い匂いを放つ熱々の液体を注ぎ込んだ。


「ホットチョコレートだ。朝は寒いし良いだろ」


 そう言って、彼は二人分のカップを持つとテーブルまで運んでくれた。

 席に着き、二人で並んでカップに口をつける。喉に広がる、まったりと濃厚な甘さにノクティアは目を大きく開く。


「美味しい」

「だろ? 実は蒸留酒やラム酒を入れても旨いんだよ」


 試してみるか? なんて言って、彼は席を立つと棚の中から小さなボトルに入れられた蒸留酒を持ってきた。

 それを少し垂らすように入れて彼は飲むが、何だか酒を飲んでいるみたいな仕草だった。面白くなってノクティアが笑ってしまうと、彼は少し口元を綻ばせる。

本当にいつも通りのやりとりだった。


 そうして二人、静かにホットチョコレートを飲んでいる時間は穏やかだった。

 少し世間話もした。早朝に出掛けたのは、早くに目が覚めてしまって外で鍛錬をしてきたのだと彼は言う。


 昨日の事を謝ろう、ここまで良いタイミングも無い。そんな風に思ったノクティアがソルヴィを見上げると、すぐに琥珀色の瞳と視線が絡み──彼も同じように唇を開いて何か言おうとしていた。


「ソルヴィが先に言って」


 カップを置きつつノクティアが促すと、彼は真摯に向きあい頭を下げる。


「昨晩、怖い思いをさせて本当に悪かった」


 こんなに真摯に謝られるなんて思わなかった。ノクティアはすぐに彼の腕を揺すって、頭を上げるように言う。


「嫌われても仕方ないと腹は括ってた。いつも通り接してくれて嬉しかった」


 そう言った表情はどこかほっとしたものだった。


「私こそごめんなさい。ソルヴィの気持ちを無視して、勝手に決め付けるような言い方した」


 ごめんなさい。今一度謝ると、彼はカップを置き、ノクティアを抱き寄せ髪を優しく撫でた。


「無理も無いだろ。今は俺を愛せなくたっていい」


 ──それでいいんだ。と言う彼の言葉はどこか自分に言い聞かせているように聞こえてしまう。ノクティアはいたたまれなくなって、ソルヴィを見上げると、彼の頬がたちまち赤らんだ。


「いかん」


 そんな風に言って彼が顔を逸らすので、ノクティアは眉を寄せる。


「なに……」

「至近距離で悩ましげに見上げるなって。可愛いんだから……色々と自制心が」


 何だそれは。しかし、可愛いと言われると、やはり擽ったい心地がした。

 ノクティアは真っ赤になる。堪らず俯こうとするが、彼の太い指が下を向かせないようにと顎を支えた。


「俺はとっくの前に一人の女の子として、妻として……ノッティに惚れてる。愛したい」


 その告白は、じんわりと地中の根っこに染み渡るようだった。しかし、やはりどう答えて良いかは分からない。


「ありがとう。その……うまく言えないんだけどね、私……ソルヴィの事をもっと知っていきたい。だってあんたは私の〝家族〟になってくれた。大切に思ってるの」


 ノクティアは真っ赤になって素直な気持ちを告げると、彼は優しく笑んで頷いてくれた。


 ---


 その後、二人は雑談する中で微睡み、眠りに落ちた。

 ソファで寄り添い眠る二人に、侍女たちは顔を合わせて微笑み、ブランケットをかけた。


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