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27 それはかなり前から……

 暫しの沈黙の後、ノクティアは乾いた唇を緩やかに開く。


「……ソフィアはいつから知っていたの?」

「家庭教師の事件の時からでしょうか」


 ナイトドレス姿のソフィアとイングリッドは部屋に入り、ノクティアの座すベッドの前に歩み寄った。ソフィアは潤った榛色はしばみいろの瞳を伏し目がちにして話を続けた。


「旦那様とエイリク様が助けに来た直後、あの教師と使用人の体調が激変しましたよね。その後というと、立て続けにエリセ様や使用人たちが病気や怪我に見舞われて、最後はノクティア様が体調不良になりました。そして、ノクティア様が家出した事がありましたよね」


 ──あの時です。と、ソフィアは静かに言う。

 片やイングリッドは〝何が何だか〟といった面で、ベッドの傍らに置かれた椅子に座り、片足を組んで二人を訝しげに眺めていた。


「冬になってから、消灯後にノクティア様が話す声が聞こえるようになりました。同時に聞こえるのは鳥のような鳴き声で。ノクティア様がこの屋敷に来て最初の家出から間もなくでしょう。屋敷にカラスが飛び回り、使用人たちが眠りに落ち、エリセお嬢様が岬にいたなんて奇っ怪な事件が起きました」


 ノクティアは俯いたまま言葉が出せなかった。

ソフィアの言う事は何もかも、自分のこれまでの仕業に違わない。

 まさかこうもソフィアに勘付かれていたとは。確かに屋敷に来てからというものの、彼女と関わった時間は長かった。


 今では彼女を信頼している。しかし、使用人の立場だ。

 いくらソルヴィには魔女である事や、あの事件の真相を知っていたにしても、彼女がこの屋敷に仕える使用人の立場で考えると、黙認できないに違わない。そう思えるのは、ノクティア自身が〝復讐自体が最低な手口〟という自覚が湧いてきたからだ。

 ヴァルディにも以前言われた。自分にはそんな覚悟が無いのだ。無いならしない方が良い。


 ────俺にできる事があるなら、何でも言ってくれ。

 ソルヴィの温かな言葉もあったからこそ復讐心を放棄したが……。


 ノクティアは恐る恐る顔を上げて、ソフィアを見上げた。


「それが全部私のせいだって知ったら……ソフィアはどうするの。自警団に突き出して私を裁かせるの?」


 消え入りそうな声でノクティアが言うと、ソフィアはしゃがみ込み、ノクティアの手を取ると首を横に振るう。


「いたしません。できる訳がありません」


 向けられた榛色の瞳はあまりに真摯だった。

 こんな瞳はどこかで見た事がある。伯母とソルヴィだった。


「だからこそ、私は聞きたいのです……さっきの言葉は何ですか。ノクティア様の事が知りたいです。貴女の身にいったい何が起きたのですか」


 ──お体に問題は無いのですか。そう言葉にした途端、ソフィアの潤んだ瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。

 まさかこんなにも気に掛けてくれたなんて思いもしなかった。


「けれど、どうして。そこまでして、私の事なんか……」


「私を助けてくれたじゃないですか。何かと表情に出やすい本当は素直なノクティア様が可愛いらしくて、大好きだからに決まっているじゃないですか」


 大好き。その言葉にノクティアの瞳はたちまち潤い、ソフィアの手をやんわりと解き、頬に伝う熱い雫を袖で拭った。


 どうして、こんなに心が温かいのだろう。この感情は何というのか……。これまでイングリッドやジグルドに持っていた感情と同じに違いないが、それを強めたもの、明らかに自分の知らないものだった。

 こんなにも自分を大切に思って真摯に見てくれる人の心を無碍にはできなかった。


 ──言うべきだ。ノクティアは意を固めた。


「嘘みたいな事実だけど信じて欲しい。私は……ヘイズヴィーク領に来たあの夜、海に落ちて死んだの。そして、冥府──ヘルヘイムに渡った」


 ノクティアは腕を差し出し、スキルとヴァルディを呼ぶと、二匹の青白い蝶が現れ、雪煙になり、二羽のワタリガラスが姿となる。ノクティアが片手を差し出すと二羽は躊躇う事なく腕に留まった。


『ノクティア……実は私、近々こうなると思ってあまり警戒していませんでした』

『おぅ、この侍女は大丈夫だろうなって思ったわぁ~』


 二羽は口々に言って、ソフィアを見る。

 あまりに意外な言葉にノクティアの涙は一瞬で引っ込んだ。


『たださぁ……逆にあっちの侍女の方がショック受けると思ってた』


 ヴァルディが口を出した途端。椅子に出していたイングリッドは立ち上がり、ノクティアの隣にどかりと座った。


 雪雲にも似たその瞳には溢れんばかりの涙を溜めていて、彼女は水紅色の唇を噛んでいた。イングリッドのこんな表情は一度も見た事が無い。ノクティアは唖然とする。


「言え、これまでを全部。どうしてノクティアが死ぬ事になったか言え」


 イングリッドは静かに告げる。

緊張で言葉が出ない。幾何かして、ノクティアは戸惑いつつ乾ききった唇を開いた。


 ──理不尽な折檻を受けた事、逃亡の際、パニックになって崖に転落し海で溺死した事。死の女神に会った事。母親に会いたいと言ったが会えなかった事。恨み辛みを射貫かれた事。

 そして恨みを果たすために死に戻れと女神から加護を授かり、魔女として死に戻った事。カラスたちを使い、屋敷を混乱させてエリセを拉致した事。ソルヴィに即座に魔女とばれた事。


 それらを一つずつ、ノクティアは言葉に出す。


「私は死の女神から、特別な力も授かって死に戻った。だけど、復讐が怖くてできなかった。臆病で中途半端な魔女なの」


 言葉にすると、なぜだか再び瞼の奥が熱くなり、とめどなく涙が溢れ出た。


 ──復讐するために死に戻ったのに、復讐できていない。魔女の力を得ても、ちっぽけで何もできなくてお飾り妻であり、ソルヴィの優しさに甘えている。

 ソルヴィは魔女と知っていても、死に戻った事を言えていない。今更すぎた。随分と時間が経ってしまった。今更明かすのが怖くて、打ち明けられていない。


 その旨を言った途端に、イングリッドに強引に引きよせられるように抱き締められた。二羽のカラスは椅子の背もたれに移って、置物のようにノクティアとイングリッドを黙って見つめている。


「一度死んだとか旦那に簡単に言えないのは当たり前だ。だけどな、どうして私にすぐ言わなかった! どうして抱え込んだ! ノクティアをそこまで追い詰めて死なせた奴を今からボコボコにして海に捨ててシャチの餌にでもしてやっていい」


 彼女らしい言葉であり、やりかねないと思うが……その声はひどく震えていた。

 ノクティアがイングリッドの顔を見ると大粒の涙が頬に伝っている。

 視線に気付いたのだろう。イングリッドは涙を拭い、ばつが悪そうに鼻を啜った。


「イングリッドにそんな事はさせたくない。そんな事をしたら捕まってヴァルハラに送られちゃう」


 ──人を殺せば、死で罰せられるのだ。

それもルーンヴァルト人の処刑方法は過激なものが多い。


 古い信仰は今も強く残っているので、殺人を犯した者はヴァルハラかヘルヘイムか行き着く先を選ぶ。ヘルヘイム行きの処刑は斬首や絞首に溺死など比較的軽いが、威勢の良い者はヴァルハラ行きを選ばされ、世にも残酷な処刑を行われる。

 罪人のタトゥーの入るイングリッドがもし殺人をすれば、ヴァルハラ行きにさせられる事はノクティアも分かっていた。 


「そんなの嫌だよ」


 ノクティアが言うと、彼女は俯き頷いた。イングリッドの漆黒のナイトドレスにはたはたと雫が落ちてシミを広げる。


「ノクティア様、少しだけお話が変わりますが……」


 ソフィアはふと何か気付いたようで、ノクティアの傍らに置かれた絵本を取った。


「この本は全部読まれました?」


 全く接点の無い会話だ。ノクティアは戸惑いつつ頷くと、彼女はその絵本を開く。


 ……これは三匹のヤギが橋を渡る話。その谷底には腹を空かせた恐ろしいトロールが待ち構えていると。イングリッドと昼に話したばかりだった。


「これは有名な民話です。民話や逸話というのは教えがあります」


 ──たった一匹では困難に立ち向かえない。

それでも三匹の知恵があって困難は回避されて打ち消された。ソフィアはそう語ると、ノクティアにやんわりと笑む。


「ノクティア様が一番目、私が二番目だとしたら、イングリッドは三番目に来たとても強いヤギみたいです。この民話は暴力に勝るのはそれに勝る暴力とも捉えられがちですが、三匹の〝機転と知恵があって大きな困難を乗り越えた〟とも捉えられます」


 その言葉にノクティアと目を瞠る。イングリッドは顔を上げて、真っ赤になった瞳でソフィアを見て笑う。


「力を合わせろって事ね」


 イングリッドの言葉にソフィアは優しく微笑み頷いた。


 ---


 そうして三人で話をして、遠くの柱時計が午前零時の鐘を打つ。

 そろそろ寝ようと、侍女たちは小さな続きの部屋に戻ろうとした。その際だった。何か思い出したように、イングリッドはノクティアの顔を見る。


「そういえばノクティア。あんたさ、死に戻っても〝月のもの〟はある?」


 突然何を訊くのか。変わらずにあるが……。

 ノクティアが神妙な顔で頷くと、イングリッドは心底安堵したような顔をする。


「私もソフィアもあんたと旦那が〝白い関係〟のままと察しているが……半年も経っても子どもができないと大奥様側の使用人どもが囁いていたのを耳に挟んだ。あの旦那に限って無いだろうが、度重なる外出に、不妊のノクティアを諦めて社交界に出向いて、新しい妻を探してるだの変な噂がある」


 イングリッドは眉を寄せてそんな事を言う。

 しかし、そんな噂があるのかと。だがそれがもし本当だとしたら……。

 何とも言えない不快な感情がノクティアの胸の中に疼いた。

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