年の瀬を間近にした極夜の季節、ノクティアは十九歳の誕生日を迎えた。
そして、厳しい冬を越えた三月。彼女がヘイズヴィーク領に来て、半年近い月日が過ぎた。
この冬は例年以上に雪が多かったらしい。
ルーンヴァルトの冬は毎年長く厳しいものだが、三月になると降雪は幾分落ち着いて、日照時間も戻り始める──〝春の始まり〟と見られる頃だった。
空には薄い雲が広がり、淡い日差しが雪原に反射して輝きを放っている。そんな景色は穏やかで、寒さと静けさが長い冬の名残を感じさせるものだった。
ソルヴィは、頻繁に王都に出掛けるようになっていた。
仕事らしい。とはいえ、ノクティアは領主としての執務をよく分かっていないお飾り妻だ。無理に分からなくても良い。なので、彼の執務について聞く事は無かった。
それなのに、彼は戻ってくる度に、様々なお土産を買ってくる。
王都で流行らしい甘い焼き菓子に、外国製のチョコレート菓子。それから琥珀の耳飾りに、クマやヘラジカ、カラス、フクロウなどの動物を象った手のひら大の木製おもちゃなど……。
最後のものに関しては子どもでもあるまいし……とは思うものの、丁寧に削られて作られた木のおもちゃは可愛らしく、ツルツルとした触り心地で存外ノクティアは気に入ってしまった。
そんなおもちゃを片手で愛でながらノクティアは暖炉の前の安楽椅子で読書を楽しんでいた。
この冬、ノクティアは文字の読み書きの勉強に明け暮れていた。そのお陰もあって今ではもう、子ども向けの易しい本ならば普通に読めるようになった。
ノクティアの部屋の隅には、小さな本棚が追加され、そこには絵本を初めとする、様々な本が沢山詰められていた。
本はソルヴィが買って来てくれたものもあるが、ほとんどソフィアが実家から持ってきてくれたお下がりだった。
沢山読まれてきたのだろう。端がすり切れていて、落書きがされたページもある。何だかそんな場所を見ると、不思議と温かな気持ちになり、それらを読むのがノクティアの楽しみになっていた。
今日選んだ本は、三匹のヤギが出てくる物語だ。
少しだけ読み進めて気付いたが、聞き覚えがある。幼い頃、母が話してくれた民話だろうか。どういった話かは詳しく覚えていないが、記憶が正しければ橋の下に恐ろしくて醜い姿のトロールがいたような気がするが……。
読み進めてページをめくると記憶が的中した。大きな口を開けたトロールが橋の下から睨んでいる絵があった。
それと同時だった。
「ノクティア」
背後から響いた声に、ノクティアは肩を震わせてびっくりした顔で振り返る。そこには、雑巾を持ったイングリッドが立っていた。
「びっくりした」
「はは。真面目に本に食らい付いてるから、何を読んでいるのか気になったのさ。何だっけそれ、ヤギの民話だろう? 私も昔、母さんから聞いた事があったな」
感慨深そうに彼女は言う。
……イングリッドの母親。
そういえば、彼女から拾ってくれた老爺の話は何度か聞いたが、母親の話はあまり聞いた事がなかった。
自ら命を絶ってしまったとだけ聞いたが……。
「そうだったんだ。偶然。私も同じなの」
「おお、本当か? その民話、読み聞かせの定番なのかな。でもうちの母さん王都で働いていた異国人でさ、ルーンヴァルトの言葉が下手だった。それでまぁ絵本で勉強していた」
同じだな。なんて言って、イングリッドは笑む。
長年ずっと一緒にいたが、そんな話は初めて聞いた。
「イングリッドとジグルドのママって外国人だったの? 確かに二人の髪色って珍しいと思っていたけど……」
「そう。赤髪は母親譲り。もうこの歳にもなれば分かっちゃいるけど母さんは娼婦だろうな」
──埃臭い狭い部屋に住んでいてさ。男が来ると私とジグルドを下に住んでいるおっかねぇおばさんに預けるんだ。
懐かしい事を思い返すように、イングリッドは優しい顔で語る。
「相手が夫か客かは知らないが、私とジグルドは顔が似てるから、父親は同じだろうね」
──まぁ父親が同じだろうが違かろうが、弟に変わりないし、どちらでもいい。
そう付け添えて、彼女はやんわりと笑った。
「私と似てるけど真逆だね。私エリセと全然似てないし」
「だなぁ。確かにノクティアとあのお嬢は似てないなぁ……大奥様と瓜二つすぎるんだよ。美人だけど、ノクティアの方が若いというか年下に見えるんだよなぁ」
そんな雑談をしている最中、叩扉が響いた。
「こら、イングリッド。またノクティア様の部屋で油を売って!」
入って来たのは、エイリクだった。
昼前のこの時間は使用人たち総出で屋敷内の清掃を行っている。侍女は例外とされるが、イングリッドは直々にエイリクから指導を受けているので、これに参加していた。
「うわ、やべ。おっさん来やがった!」
「だから、その〝おっさん〟はやめなさい。仮にも貴女の教育係。使用人頭──名で呼びなさい。そして言葉使いを正しなさい」
──いいですか、お賃金も発生しているのです。きちんと働かなくては、ソルヴィ様に失礼に当たりますでしょう!
くどくどと説教を垂れるエイリクに、イングリッドは煙たそうに後ろ髪を掻いていた大きなため息をつく。
それから一拍経て──お仕着せのスカートを摘まみ、膝を折って丁寧な一礼をした。
「ええ。おっしゃる通りです。畏まりましたエイリク様。ですが決して怠けていた訳ではございません。ただちに、仕事に戻ろうとしていましたわ」
今までの言葉使いが嘘のよう。完璧な言葉使いと所作でイングリッドは花のようにエイリクに微笑む。
「言い訳はよろしい。まったく……貴女って人は、やればできるでしょうに」
エイリクはやれやれと首を振った。
そう。イングリッドは淑女らしい所作と言葉使いを覚えるのが恐ろしく早かった。そして屋敷での仕事を覚えるのも早く、周りを圧倒させていた。
じゃじゃ馬でサボり癖もあるが愛嬌がある、その上、彼女は器用だった。そんな部分から、エイリク派……つまりは前当主派の使用人たちに気に入られて可愛がられていた。
それどころか、前侯爵夫人フィルラ側の若い女使用人とさえ溶け込みだした。
否、乱闘の時の恐ろしさやお仕着せの中に隠されたタトゥーだらけの身体を恐れられいると言った方が正しいのだろう。
ソフィアの話によると、彼女が加わった事によって、使用人の間のいざこざが激減したのだという。まさに救世主のようだと……。
「じゃノクティア。また後で私の文字の勉強も付き合って!」
イングリッドはノクティアにウインクすると、エイリクとともに部屋を出て行った。それからややあって、閉ざされたドアの向こうから二人が丁寧な言葉で言い争いをしているのが聞こえた。
賑やかでかしましい。これがノクティアにとって、日常になり始めていた。
---
その日、ソルヴィは王都に出掛けたばかりだったので、ノクティアは夕食を一人で食べた。
この半年のほとんど、朝晩一緒に食事を取るのが通例だったので、ここまで頻繁な遠出の外出が多くなると、ノクティアはほんの少しだけ心細さを感じていた。
ソルヴィは今頃何をしているのだろうか。夕食は食べたのだろうか。就寝前、そんな事を考えつつ、ノクティアはベッドの上に本を置き、クマの木製のおもちゃ撫でていた矢先──視界の端に二匹の青白い蝶が舞って、スキルとヴァルディが姿を現した。
『こんばんはノクティア退屈そうですねぇ』
『よーっす。もう寝るのかぁ?』
スキルはノクティアの肩に留まり、ヴァルディに関しては布団の上で寝っ転がっていた。
「もう寝るよ」
ノクティアが少しばかり周囲を警戒しながら小さく言った。
ノクティアの就寝前。この時間、ソフィアとイングリッドはいない。侍女たちの入浴の時間だった。それでも急に戻ってくる事がある。ノクティアは隠すように二羽を布団の中に入れる。
『やべ~まじで何度入っても気持ちぃい……』
最高と。ヴァルディはふかふかなシーツの上を転がり回る。そんな姿が可愛くてノクティアは思わず微笑んでしまった。頭の隅に本来の姿が過ったが、それは置いておこう。
そもそもだが、冬期は雪が深いので庭に出る事は無かった。
そう。使い魔たちと会う場所がなかったのだ。ソルヴィは二羽の事も魔女である事も知っているので彼と二人きりの場面ならば出てくるが、ソフィアとイングリッドの気配があると二羽は姿を現さない。
二羽は喋る時にカララ、クルルと鳴き声を上げている。なので、怪しまれないようにとノクティアは二羽をこうして布団の中に招いて話す事にしていた。
「ソフィアは繊細だから、カラスが部屋にいたら驚いちゃうかも。でもさ……私、いい加減にイングリッドにはあんたたちの事を話そうと思ってるの。それとさ前から聞きたかったんだけど……」
──死に戻った事って明かしても良いかな? そう訊いた途端に叩扉が響いた。
途端に二羽は雪煙になって姿を眩ました。
間もなく姿を現したのは、ソフィアだった。寝間着姿の彼女は辺りを見渡した後にノクティアの方を向く。
「ノクティア様、失礼いたします。今、鳥のような鳴き声が。あと、今誰かとお話されていましたよね?」
──死に戻ったって、どういう事ですか。
ソフィアは苦しそうな顔でノクティアを見つめた。その後にイングリッドも部屋にやってきた。イングリッドは不安そうな顔をするソフィアに気付くと、すぐに彼女の肩を摩る。
「おい、どうした?」
「ノクティア様……そろそろ隠し事は無しにしませんか? イングリッドとのお付き合いが長いので信頼できるのは分かっています。ですが、私も貴女の侍女です。貴女が誰かと話している事を、貴女が神秘的な力を持っている事を……私は以前から知っています」
今にも泣きそうな苦しげな顔だった。そんなソフィアに射貫かれたノクティアは、彼女と同じような表情でナイトドレスを膝の部分で強く握りしめた。