イングリッドとの久しい再会にノクティアはご機嫌だった。
このボロ屋はイングリッドとジグルドの家。そしてノクティアの家でもある。
元はイングリッドとジグルド拾った老人の家だったらしいが、老人の死後二人で住んでいたらしい。そうして家出して貧困街にやって来たノクティアが迎え入れられ三人暮らしとなった……という流れだった。
「懐かしいね、何も変わらない」
久しい我が家にノクティアがテーブルに座って辺りをぐるりと見ると、イングリッドはクスクスと笑みを溢す。
「そりゃ二ヶ月くらいじゃ変わらないさ。まぁ何より、あんたが無事で良かったよ」
イングリッドは優しく笑む。
タトゥーだらけの厳つい女だが、時々彼女は優しい顔をする。それも見とれる程に美人なので罪人のタトゥーが余計に勿体ないと思えてしまう。
しかし……無事と。
ノクティアは少しばかり複雑な顔をした。
無事どころか、一度ヘルヘイムに渡り死に戻ったのだ。そして魔女の力を得た。
彼女になら全てを話しても良いような気がする。しかし、どう話せば良いか分からない。思い悩んだ矢先だった。
「どうしたノクティア。もしかして、あの旦那と上手くいってないのか? 考えられるって言ったら、夜の方面か?」
突拍子も無い事を言われてノクティアは固まった。
「え?」
「え? じゃねぇよ。だって結婚って
そんな事としていないし、するつもりもない。ノクティアは真っ赤になってぶんぶんと顔を振り乱すと、イングリッドは豪快に笑った。
「じゃあ何だって言うんだ、新婚さん」
「そういうのじゃないの。ただあの……本当にね、私色々とあったの。イングリッドに色々話したいと思うし、聞いて欲しいなって思う」
ノクティアが不安げに言葉にすると、イングリッドは頷き、ノクティアを真っ直ぐに見据えた。
「勿論だ。可愛い妹分の事だ。何だって聞くよ」
「でもさ。伯母さんに聞いたとしても、どうして今の私を受け入れてくれたの?」
素朴な疑問である。自分の母の事や生い立ちはイングリッドも知っている。その話を聞いて、イングリッドも『お貴族様はどうしょもない』『裕福な奴の考える事なんて分からない』なんて一緒に悪口を言ってくれたのに。
「そんなの簡単さ。私はノクティアが父親の家に連れ戻される日が来る事も、ほんの少し想像した事があっただけ。それが現実になっただけだ。ノクティアの伯母さんも言っていたが、確かに飢えず温かい寝床があって教育の機会だとかあって……なんて考えると、ノクティア本人が幸せなら良いだろうとは思ったよ。確かにあの連れ去り方は強引だと思ったけどな。結果的に良いならいいさ」
「そうだったんだ……それを聞いたら少し安心したかも」
「ああ、でもジグルドの方はまだキレ散らかしているよ? どこの貴族の男だ! なんて騒いでいたし。相当ショックを受けてるね、あれからずっと」
前言撤回。全く安心できない。
血の気の多いジグルドとソルヴィが会ったらまずいのではないのか……。ノクティアが半眼になった瞬間だった。外から低い怒声が劈いた。
「噂をすれば……」
イングリッドもやれやれとため息をつく。間違いなく、その声はジグルドのものだ。ノクティアはこめかみを揉みつつも、すぐに立ち上がる。
「ノクティア、キレ散らかしているジグルドは面倒って知ってるでしょ? それに、あんたの旦那、あれだけ逞しいから大丈夫でしょう?」
「そうだけど。ソルヴィ、ついこの前にヒグマに襲われて」
その瞬間にイングリッドは跳ねるように立ち上がる。
「はぁ? 生きているって事は勝ってるんでしょ! ちょっと待って、そんな手練れと対峙したらジグルドが逆に危ないんじゃ……」
「そうかもしれないけど、ソルヴィはそれで怪我してるの!」
何針も縫って抜糸していない。それを言うと、イングリッドは急ぎ家を飛び出した。ノクティアも後を追って、家を出ると案の定、そこにはソルヴィとジグルドの姿があり、二人を取り囲むように、焚き火をしていた男たちが野次馬をしていた。
この街で喧嘩なんて観戦娯楽だ。続々と人が集まり、今度は誰と誰だなんて、どよめいている。
「おいおい、相手はお貴族様か?」
「ああ、さっきノクティアが連れていた男じゃねぇか」
「こりゃ面白い洗礼試合だ。じゃあ~いつものやるか」
そう言って、一人の男は小汚い帽子を脱いで、金を集め始めた。
──ジグルドに一票。いや待て、あの貴族の兄ちゃんの体格はジグルドよりいいぞ。
男どもは、やいやいと騒ぎ立てている。
「待て。俺は誰とも争う気は無い。おまえが誰かは知らないが……」
ソルヴィは困惑した様子でジグルドに語りかけるが、彼は眉をひそめて顎を聳やかす。
サイドを剃り込んだ赤髪にタトゥーだらけ……鋭い目付きの彼がやると極悪人のような雰囲気が滲み出る。
「あ? びびってんのかァ、クソ貴族。俺は、ジグルドだ。誰がノクティアの夫になるなんぞ許した。惚れた女連れ去られて結婚なんぞ胸くそ悪りぃ」
──俺は許さねぇ。と、ジグルドは指をボキボキと鳴らして威圧する。
「そうか、ジグルド。それは申し訳ない。だがな、おまえが許さないにしても、
対峙したソルヴィは穏やかに告げるが、それも癇に障ったのだろう。彼は、地面に置かれた焚き火の缶を蹴飛ばして、ソルヴィを威圧的に睨む。
「やめて! ジグルドやめてよ!」
そもそも惚れていただの知らなかった。そうだとしても、自分を理由にして争われるのは気分も悪い。ノクティアは二人のもとへ行こうとするが、イングリッドがそれを制した。
「離してイングリッド!」
「巻き添えであんたに、もしもの事があったら誰も幸せにならないでしょ。私は女だから、伯母さんの気持ちもあんたの気持ちにも少しは寄り添えるけど、男ってやっぱり視線が違うし、痛い思いしないと分からないのよ」
イングリッドは完全に呆れた顔をしていた。
その瞬間だった。ジグルドはソルヴィを睨み据えたまま歩み寄り、顔面目掛けて拳を入れた。
だが、その手をソルヴィは掴む。
「早いな悪くない」
極めて冷静にソルヴィが言うと、ジグルドは舌打ちし、ソルヴィの脚を蹴って巨体を薙ぎ倒した。
低い音と振動とともに路面の雪が舞う。その途端にジグルドはソルヴィに馬乗りになって拳を入れた。
二発、三発と顔面に拳が入り、群衆は歓喜と興奮の渦に湧き立った。
「やめてよ! ジグルド! よしてって言っているでしょ!」
──やめて! とノクティアが叫ぶや否や、どよめきが生まれた。
ソルヴィが殴り掛かるジグルドの手を止め捻り上げたのだ。
その隙に彼は跳ね起きて、ジグルドを投げ飛ばしたのである。
ソルヴィは壁面に倒れたジグルドの胸ぐらを掴んで立たせると、壁面に追いやった。
「三発で満足か? ジグルドおまえは、なかなかに骨がありそうだな。こんな場所で腐らせるのは勿体ない程に反射神経も良い、良い体術のセンスもある」
瞬時に逆転に持ち込まれ、褒められた事に戸惑っているのだろうか。ジグルドは眉を寄せるが、不快そうに舌打ちをする。
「どこ視点だ、てめぇはよ。お貴族様は分かるが、とんだ上から目線だな」
「残念ながらどう考えても、俺の方が明らかに強いからな。鍛え方が違うんだよ」
ソルヴィの言葉にジグルドは舌打ちし「何様だよ」と低くがなる。
「ソルヴィ・ハラルドソン・ヘイズヴィーク。旧姓はビョルダル、そこの次男だ」
彼がそう語った瞬間だった。乱闘を観戦していた男の一人が、賭博を主催した男の帽子に銀貨を一枚入れた。
銀貨は銅貨五十枚分の価値である。
この一枚で、ここの人間なら三日は三食ありつける金額だ。その男は「お貴族様にかける」と言う。
「ビョンダルっちゃ、あのビョンダル伯爵領か……あそこの領主は代々強いぞ。十年以上前の戦乱で活躍した英雄ハラルド。その息子だな」
「はぁ? で、あの兄ちゃんが婿に行ったって? だが、次男が生まれた家より、爵位の高い侯爵家に事は……」
「長男がビョンダルを引き継いで、次男がヘイズヴィークに婿に入ったって事だろ。お貴族様、長男にも騎士教育はさせるが、次男の方に本腰を入れさせる傾向が強い。領地のため、お国のためにもな。そんで、あの兄ちゃんは、侯爵家に認められるほどに騎士として地位もある実力者。ビョンダル姓だ、あとは分かるよな」
「まさか、あの兄ちゃんが
その言葉に、周りは一気にどよめいいた。
しかし、猛獣騎士といった彼の存在がこうも有名とは知らず、ノクティアは目をしばたたいていた。
そんなノクティアを見て、近くに居た中年の顔見知りの男は「最強の旦那じゃないか」とノクティアに笑う。
「……そんなに有名なの?」
「有名だ。俺たちの中には、十年以上昔の戦乱で家族を亡くして、この街に来た奴も多いからな。俺らの代で騎士が嫌いな奴はそうそういねぇ。こんな腐れた街でも年配者はビョンダルの英雄を知っているさ。そんで、その英雄の次男が猛獣騎士と呼ばれていて強いって噂もな」
とんだ有名人だった。
ノクティアは目をしばたたきソルヴィを見る。
エリセなんてその名だけで「ウゲェ」なんて顔をしていたし、自分だって、よく知らなかった。
だが、人によってはこうも反応が違うものかと驚いてしまう。
その時だった。
「分が悪すぎだ……ルーンヴァルト
負けだ負け。と、ジグルドは手を上げ、乱闘は終わった。