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21 猛獣の咆哮

 瞬く間にヒグマは巨体を揺らしてノクティアに向かって突進した。


 ゴゥ──と低い咆哮と同時に生臭い息が顔にかかる。

 もうだめだ。ノクティアは強く瞼を伏せた瞬間だった。


 恐ろしい速さ何かが、背後から飛んできた。

 ギャ。っと、ヒグマは低い悲鳴を上げる。

 カラン……。

 音を立てて、地面に落ちたのは石の礫だった。


 その途端だった。背後から恐ろしい勢いで〝何か〟が迫り、鋭い金属音が鳴ったのである。


 怖々とノクティアが瞼を持ち上げると、涙で靄のかかった視界の先──大きな赤銅色の生き物が立ち塞がっていた。別のクマか……。


 しかし──

「うおらぁあああ!」


 その声は人のもので明らかに聞き覚えのあるものだった。

 否、普段は穏やかそのもののはずだが。ノクティアが涙を拭くと、その姿は見慣れた大男のものになった。


 ソルヴィは大きな斧の刃先でヒグマの牙を受け止めていた。ヒグマは刃先を銜えたまま二足立ちになろうとした。

 彼はその巨体を蹴りあげて斧を口から引き抜いた。それで舌が少し切れたのだろうか。ヒグマは口から血を流して痛がるような鳴き声を上げるが、退こうとはせずに立ち上がり、怒声とも受け取れる荒々しい咆哮を上げる。

 ソルヴィは舌打ちを入れ、斧を構え直した。


「そのまま森の奥に帰れ。口の中が痛いだろ」


 ヒグマは言葉など通じない。ソルヴィの言葉など無視して立ち上がり、腕を振り上げた。それを彼は斧の柄肩で受け止めた。しかし次の瞬間──片手が彼の肩口を抉った。


 風に乗って強烈な獣臭に混じって濃い血の臭いが漂った。ノクティアは目を瞠り戦慄く。

 しかし彼はよろめく事も無く、烈しく叫び続けるヒグマに斧を握ったまま立ち塞がっている。


「帰れと言っている! さもなければ、おまえを殺さないといけないだろ!」


 荒々しく叫んでソルヴィはヒグマの巨体に再び蹴りを入れ、少しばかりよろけた隙に斧を振り上げた。

 その刃先はヒグマの胸元を裂き、たちまち赤々とした血が流れ始めた。


 悲鳴に等しい咆哮が劈き、返り血がソルヴィの顔を濡らす。

 その一拍後──ヒグマは尻込み、一目散に森の奥へ向かって駆け出した。


 笹を揺らす音が遠ざかり、獣の気配は遠くなる。そうしてようやくソルヴィはノクティアの方を向いた。


 琥珀色の瞳はまさに狩りをする獣のような目──興奮を訴えたままだった。先程のヒグマとは変わらぬ獰猛な気質をどこか感じさせる強いもの。その風格はまさに〝猛獣騎士〟の異名は伊達でないと理解する。


 彼は顔面についたヒグマの血を袖で乱雑に拭うと、ノクティアに近付いて、手を差し出した。


「ノッティ立てるか?」


 怖かったな。と、いつもと変わらぬ口調で言われるが、ノクティアはどういった訳か涙が込み上げ止まらなかった。

 それでも彼の手を借りて立ち上がるなり、背伸びをして肩口の傷に手を伸ばす。


「馬鹿……どうして私を追ってきたの、怪我までして」


 衣類が引き裂かれて、彼の灰黒の服は血で濡れていた。衣類の隙間から傷跡が見えるが、肉が抉れており、あまりに無惨なものだった。


「どうして私を助けたの、追ってきたの、あんたが傷付く事なかったのに」


 言葉にすればするほど涙が溢れて止まらない。ノクティアはソルヴィの傷に手を当てたその時だった。

 森の木々から緑色の光がふわふわと漂い集まり、彼の傷を煌々と照らす。


「ノッティ……?」


 彼は驚いた顔をするが、ノクティアもどういった状況かは分からず目を瞠る。

 そうして、光が穏やかになると彼の傷から流れる血は止まって、その傷は少しばかり癒えていた。やがて光は弾け、森の木々に散り散りに戻っていった。


 今のはいったい何だったのだ。それでも、彼が無事で怪我が癒えた事への安心感が強かった。


「ごめんなさい。私のせいで、あんたが……ソルヴィが傷付く事になって、ごめんなさい」


 ノクティアが素直に謝罪すると、彼は軽い笑いを溢す。そうして、屈むとノクティアを抱き寄せた。


 突然の事で驚いてしまった。しかし、ヒグマが迫ってきた時に……ノクティアは自分の粗相を今更思い出し真っ赤になって彼から離れようとするが、ソルヴィは更に抱き締める力を強めた。


「お願い離してよ……」


「嫌だ。抱き締めていたい。俺の血で服が汚れるのは申し訳ないが、今はこうしてノッティを抱き締めていたい」


 そう言って更に力強く引き寄せられた。ノクティアが更に真っ赤になって彼を見上げるとすぐに額に、頬に、そして涙で濡れた瞼と唇の端に口付けを落とされた。


 しかしどうして愛おしんでするようにキスするのか。

 だが、あえて唇にされなかった事に少し驚いてしまう。

 ノクティアは唇に手を当てて彼を見つめると「そんな顔をされたら唇にもしたくなる」なんて苦笑され、再び額に口付けをされた。


「可愛い奥さんを守れた、いつかは勲章になる。怪我の事は気にしなくていい」


 ──可愛い奥さん。思いがけない言葉にノクティアは更に真っ赤になるが、すぐに唇を歪めた。

 間髪入れずに、潤んだ瞳から再び大粒の涙が溢れ始める。


「馬鹿じゃないの。私は悪い魔女だよ」


 許せないから屋敷の人を苦しめた、あんただって私を許せないって言った……ノクティアが弱々しく告げると彼は頷き、ノクティアの頬に流れる涙を太い指で掬うように拭く。


「人を呪うような真似をして、自分まで傷付くなんぞ確かに許せない。だけどノッティの心根が優しいのは知っている。他人を思いやれる優しい子だ」


 ドレスを裂かれた時の針子たちの事。家庭教師に乱暴されそうになったソフィアの事など……ソルヴィは一つずつ話して、優しい視線を向けて、ノクティアの頬を撫でた。


「ノッティを見ていれば、一生懸命に生きてきたのが分かる。それに、とてつもなく強い目をしているけど純粋さがある。けどな、ノッティの目はたまに光が無くなるように、苦しげな顔をしている事がある。可愛い奥さんに、そんな顔をさせたくないって俺は思うんだ」


「……だからその可愛い奥さんって」

 別に可愛く無い。と、ノクティアが首を振ると、彼は少しびっくりしたような顔をする。


「馬鹿言え。ノッティは俺に勿体ないくらいに可愛い女の子だ。そもそもだが結婚した時点で一生かけて守ろうと思った。寄り添おうと思った。たとえノッティが誰も愛せなくてもいい」

 ──俺がずっと愛を注げばいいと思ってる。愛したいと思ってる。そう言って、彼は再びノクティアの額にキスを落とす。


 愛したいと思う。その言葉を聞いた途端──胸の奥底がカッと熱くなった。胸が早鐘を打ち、頬も熱い。初めて感じた得体の知れない感情にノクティアは戸惑い、堪らなくなってソルヴィから視線を逸らした。


「どうした?」

「何だか恥ずかしい。上手く言葉にできないよ。だけど、助けてくれたのは、ありがとう」


 戸惑いつつノクティアが彼を一瞥して言うと、すぐに軽い笑い声が落ちてきた。


「そんな部分が可愛いんだ」

 優しくそう言って、彼はノクティアの髪を優しく撫でた。


 ---


 そうして二人は帰路につく。すっかり宵の帳が落ちた森の外にミルクルがいた。

 しかし、どうしてこの森に来たのが分かったのか。ノクティアが不思議に思って訊いた矢先だった。


 青白い蝶が飛び、二羽のカラスが姿を現して、スキルはノクティアの肩にヴァルディはソルヴィの肩に留まった。


『私の心配なんていいのに、不器用で優しい子。あなたの方が心配ですよノクティア』


 スキルはまだ血の涙を流していた。ノクティアはいたたまれなくなってスキルを腕に移してハンドバッグを開けて、適当に詰め込んだハンカチーフを取り出し、彼女の涙を拭った。


『仮にも契約しているご主人様だからさぁ……森で野垂れ死んだら困るんだよなぁ』


 あんなに突き放したにも関わらず、まさか助けを呼んでくれたとは……。


「スキル、ヴァルディ、酷い事言ってごめんなさい……」


 ノクティアが素直に謝ると二羽は顔を見合わせて稚い笑い声を溢す。


「使い魔とも仲違いでもしていたのか?」


 そんな風にソルヴィが言うと、ヴァルディはここぞとばかりに『そうだよ! 聞いてくれよ旦那ァ!』とペラペラと耳の痛い愚痴と文句を溢し始めた。だが、ソルヴィからしたら喧しく鳴いているようにしか聞こえないだろう。ノクティアは半眼になってそれを聞いていた。


「何を言っているか分からないが、相当不満だったようだな。まぁでも二羽の手柄なんだ。屋敷に帰るなり二羽が騒いでいた。部屋に戻れば荒れ果てたもぬけの殻。ソフィアが泣きそうな顔をしていた。それで二羽を追って来たらこの森だった」


 そうしてノクティアが今にもヒグマに襲われそうになっていたと……。


「あとこれ。もしも薄暗い時間帯に外を歩きたいならば、これから笛を付けておけ」


 そう言ってノクティアの首に彼は屋敷に置いてきたはずのクマ避けの笛をかけてくれた。けれど、もうこんな怖い思いはこりごりだった。ノクティアは首を振り──


「夕暮れ時も早朝も出歩かないし森には近寄らない、もう逃げないよ」

 と、小声で言うと彼は笑い、ノクティアの頭を撫でた。


 やはり気恥ずかしい。それに異性でずっと年上の男の人なのだと認識させる。けれど不思議と嫌な心地はしなった。


「あとな。俺にできる事があるなら、何でも言ってくれ。ノッティが希望を持てるような、やりたい事や叶えたい事があるなら言ってくれ。それを手伝いたい」


 真摯に向けられた視線はやはり擽ったくて堪らなかった。

 他人なのに。やはりそうは思うが、〝結婚した時点で一生かけて守ろうと思った。寄り添おう〟という彼の言葉が蘇る。彼は覚悟を固めて結婚したのだ。それだけの責任を取ろうとしているのはノクティアにも充分に伝わっていた。


「ありがとう。だけど、私わがまま言っちゃうかも」

 ノクティアがそう言うと、ソルヴィはどこか楽しげに微笑んでいた。

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