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20 足りなすぎる覚悟

 その日の夕飯も翌日の朝食もソルヴィと一緒に取る事は無かった。


 領地を引き継いだばかりで彼も彼で忙しい。

 自分になんて気に掛けている暇なんて無いのだ。否、エリセや使用人たちを呪った事が分かり、あの反応を示された時点で完全に心が離れてどうでも良くなったと思しい。ノクティアはなかなか充血が引かない真っ赤な目を擦り、起き上がった。


 ──もうこんな場所には居られない。それに居たくない。


 丁度時刻は夕暮れ迫る頃合いだ。幸いにも今はソフィアも部屋にはいなかった。

 この時間になると、使用人たちの多くは夕食の準備に追われている。これほどまでに出て行くには最高なタイミングは無いだろう。


ノクティアは起き上がるなり、ナイトドレスを脱ぎ捨てて、一人でも着られるような簡素なワンピースに袖を通した。

 クローゼットの中にはハンドバッグもある。その中に食べられかったビスケットやキャンディーをハンカチーフに包んで入れる。

 他に持って行くものはあるだろうか……。与えられたもので高価そうなのものは売れば金にできそうだ。

 そうしてドレッサーの引き出しを開いて、結婚式で付けた琥珀のネックレスと髪飾りを乱暴に入れた。


 その時だった。カランと何かが足元に転がった。

 それは銀の装飾の施された革紐にくくられた笛──出会ったばかりの頃、ソルヴィから貰ったクマ避けの笛だった。


 生まれて初めて人からもらった贈り物だ。それを見た瞬間に、ノクティアの表情は曇る。

 これはさすがに持って行ない。思い出して悲しくなってしまう気がした。


「そんなに高く売れない気がするもん……」


 ぽつりと呟き、ノクティアはハンドバッグを持つと部屋を出て中庭に向かった。

 葉っぱの落ちた蔓薔薇のアーチをくぐり抜け、正面のアプローチに着くが主がまだ帰っていないので門も開いている。ノクティアは周囲をぐるりと見渡した後、一目散に駆け出した。


---


 屋敷からの逃亡は呆気なく成功した。目的地は王都だ。

 とにかく臭くて汚い街にさえ帰ってしまえば、あとはどうにかできる気がした。


 ヘイズヴィーク領を抜けるまでは、徒歩の方が賢明だろう。金も無いので辻馬車に乗ることもできない。琥珀のネックレスと髪飾りを換金するには街までいかなくてはならない。


(侯爵の妻なのに一文無しなんて皮肉だよね……)


 心の中でそう呟いて、ノクティアは農道を歩む。

 この時間に畑に人は居ない。なるべく人目につかない場所を選んだ方が良いと思った。

 以前、無我夢中で逃げて海に落ちて冥府に渡った時は、錯乱状態だったが今は気持ちが随分と落ちついている。

 きっと大丈夫だろう。この逃亡は成功するに違いない。

 そう確信して、ノクティアは少しばかり口の端を緩めた。


 農道を抜ける頃には、近隣に民家も無くなりつつあった。先には森が広がり始めて、小さな林道が続いている。周囲は既に茜が刺し、晩秋らしい冷たい空気が満ちていた。


 風が吹けば、残りわずかとなった紅葉が舞う。遠からずうちに、暗くて冷たい冬がやって来る──それを自然と想像してしまう侘しい風景だった。


 そうしてノクティアがとぼとぼと歩いていると、周囲に二匹の青白い蝶が舞い──スキルとヴァルディが姿を現した。


『ノクティアどこに行くのです?』

「帰るの、あんた体調良くなったの?」


 ノクティアはスキルに顔を向けるが言葉を失った。黒々とした瞳から血の涙が流れている。


「スキル! 出てこなくていい、帰って!」


『おいおい心配して来たのに……その言い草は酷くね?』


 ヴァルディの言葉にノクティアはすぐに彼を睨む。


「目から血が出ているじゃない!」


 ここまで酷いと思わなかった。ノクティアが苦しげな顔をすると、スキルは『分かりました』と悲しげに呟いて消え去った。


 まさか、自分のせいでのだろうか。

 不幸を願った時、彼女の目を隔てた。自分のせいだ。ノクティアは目を瞠って震え上がる。


『まぁさぁ~多分ノクティアが理由しているとおもうよぉ? だけど気に病みすぎなんだよ』


 ──僕たちなんて使なんだし。そういう契約だろ? なんて、ヴァルディが言うので、ノクティアは彼を睨み据える。


「私はこんなの望んでない! あんたたちを傷付けたいなんて思ってない!」


『でももう使用人どもを〝呪った〟だろ? 今更なんだよ。今のおまえは魂が小汚く欠損してる、つまり心も小汚く欠損してんだよ。それなのに、優しさだけ残ってら。ノクティアはさ、魔女になった本当の目的を忘れたのか? 冥府のカラスくらい使役してみろよ。おまえは汚れ落ちる覚悟もねぇのに望んだのか? 中途半端だよなぁ』


 その言葉にノクティアは歯を軋ませた。


 小汚い。また言われるとは思わなかった。それに、スキルを心配して言ったのにこんな罵りをされると思わなかった。


 確かに、自分が魔女になった理由は復讐のためだった。だが、こんな事になるだなんて誰が思うものか。怒りを覚えたノクティアは肩に留まるヴァルディを手で払う。


「あんたも出てこないでいい……一人にさせて」

 ヴァルディは何も言わず雪煙になって消え失せた。


 ヴァルディが消えても、腹の中に疼く怒りは納まらなかった。

 自分はどこで間違ってしまったのだろう。どこも間違ってなんていなかったはずのに……モヤモヤして仕方なかった。


 暫しして、ノクティアは再び歩み始め薄暗くなった林道に入って行った。


 森の中に入った事もあって周りはすっかり薄暗い。

 風が吹き抜けると、背筋が震える程の寒さだった。笹が揺れる音が余計に寒々しい。もう少し分厚い外套を羽織ってくればよかっただろうか。今ノクティアが羽織っているのは、薄手のケープだった。


 とりあえず、さっさと森を抜けてしまいたい。

 どこかに民家があれば一晩泊めて貰うのも良いだろう。無ければ、納屋でも良いかもしれない。

 暗くなる森はどこか気味の悪さがある。風鳴りの音も、木々がざわめく音も、どこか気持ちを不安にさせるものだった。ノクティアはハンドバッグを抱き締め背を丸めて歩いた。


 屋敷を出て既に一時間以上が経過しただろうか。ずっと体調が悪く寝ていたので、早くも体力の限界が訪れた。

 適当に見繕った新品の靴なので足が痛くなっていた。


 疲れ果てたノクティアがしゃがみ込もうとした時だった──異様な臭いが風に乗って届いた。


 その臭いは普段嗅いだ事も無い激臭だった。家畜臭に似ているような気もするが、甘くすえた臭いで鼻の奥をつく気持ちが悪いものだった。


「うっ……なにこれ」


 ノクティアが鼻を押さえると、風上の茂みがガサガサと揺れ動いた。そうして姿を現したのは褐色の巨体だった。


 ずんぐりむっくりとした体躯に丸い耳。背中にはこぶがある。その生き物は、スンスンと鼻を鳴らし、ノクティアの方を見ると立ち上がった。

 少し離れているが、その巨大さはよく分かる。

 自分の知っている大男──ソルヴィでさえ叶わない高さがある。


 ……ヒグマだ。


 まさかこんな形で本物に会うと思わなかった。その爪は鋭く、一撃で肉を抉ると昔聞いた言葉も一瞬で理解できた。

 目さえ合わせれば、眠らせる事はできるはずだ。ノクティアはヒグマをジッと見つめ続けると、巨体を揺らし近付いてくる。


 眠れ。そう念じるが、ヒグマは眠りに落ちなかった。


「どうして……眠れ、眠れ……眠って!」


 ノクティアは取り乱して叫ぶ。だが、ヒグマは眠る事もなく、ノクティアとの距離を詰めてくる。


「お願いだから寝てよ……お願い!」


 堪えきれず叫んだ瞬間──ヒグマは低く唸り牙をむき出した。


 言葉が通じなくとも、明らかな敵意と分かる。

 野生動物は臆病だ。相手だって怖いのだから威嚇する。今更、無害なふりをしたって遅い。


「あ……あぁ……」


 もうだめだ。眠らせる事もできないのだから何もできないのだ。こんな生き物に太刀打ちできる訳ない。死の女神の加護を受けた魔女……結局は、どこまでも無力で何一つ成す事もできない。

 ヴァルディの言うように、中途半端なのだ。


 ノクティアはへたりとその場に膝をつく。

 心臓が痛い程に脈打ち、喉元で揺れているような心地さえした。しかし、恐怖のあまり力が抜け、生温かい感覚が脚元を伝って地面に落ちてゆく。その水流は、みるみるうちに広がりノクティアの足元に水たまりを作った。

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