読み書きを教える教師は解雇。あの男使用人も解雇。事が事だけに自警団に突き出し、法によって裁く方向に持って行くらしいが、その前に診療所送りとなったらしい。
──病名不明、原因不明。だが、高熱が出ている時点で突発性の熱病だろう。
ノクティアはそんな話を上の空で聞いていた。
あの日、身を挺してソフィアは守ってくれた。
〝妹に年端が近くて、似たような立場だからこそ庇護欲が掻き立てられるから〟たかだかそんな理由で彼女は守ってくれた。
だが、自分は元はただの貧民街の女だ。庶子が貴族の屋敷に入るからこうも波乱が起きるのだ。ノクティアは自らを責め続けた。
そんなソフィアはというと、あんな事があった後だというのに、相変わらずに仕事をこなしノクティアに仕えていた。
──長い休暇を取ってもいい。自分の事はある程度は一人でできる。ソルヴィだってダメなんて言わないと思う。その旨を言うが、彼女はそれをやんわりと断っていた。
『何もしない方が、怖かった事を思い出してしまいます。手を動かして別の事に集中していた方が落ちつきますからね』
そんな風に言ってソフィアは笑んでいたが、裁縫を終えて針をしまうとその手が震えている事から事実なのだろうと思った。
彼女に何かしてあげられる事は無いのか。
そう風に思うが〝世代交代したばかりの侯爵の妻〟は、あまりにも無力な存在だった。
しかし、今回の件でノクティアにとって大きな収穫が一つだけあった。
スキルやヴァルディの手を借りずとも、強い恨みを発動力とする報復はいとも簡単に実現するようだ。
それには幾つか条件があるようだが、〝願いの具体性〟が不可欠らしい。
たとえば、教師とあの男使用人に関しては、何カ月も生死の狭間を彷徨い、悶えて苦しめば良いと念じた。そして、死に等しい苦しみを与えろと……。
そのようにした結果。願望は一瞬にして引き寄せられた。
魔女の力は洗脳、魅了、精霊に力を借りる事……とは聞いたが、これがどれに当て嵌まるかは分からない。
だが殺さずとも、死に等しい苦しみを与える事ができるのは願ったり叶ったりだった。
ノクティアはこれに気付いた日、まずはエリセに溺れるような呼吸困難の苦しみを与えた。たちまち彼女は高熱を出し喘ぎ苦しむようになり、医者が屋敷にやってきた。
そうして次は、自分を虐待した使用人たちを一人一人思い浮かべて、片っ端から与える苦痛を思い浮かべた。
ある者には数多の打撲、ある者には火傷、ある者には切り傷。そして、自分に水をかけた女使用人に関しては、庭園の池に転落させ溺れさせた。
その様子をスキルの目を借りてノクティアは見ていたが、最高に気分が良かった。はじめからこうすれば良かったのだ。
本当に魔女の力は便利だと思ったが……その時ノクティアは違和を覚えた。
どういった訳か、自分まで体調が悪くなり始めたのだ。
初めは目の激痛だった。強膜は真っ赤に充血し、頭痛がした。それから高熱を出し、吐き気を催したかと思えば、赤々とした血の混ざった吐瀉物が手を汚した。
そうしてたった一日足らずで、ノクティアは床に伏せ入ってしまった。
「ノクティア様のお病気は、胃腸炎かもしれないとお医者様が言っておりましたよ。数日はどうか安静になさってください。けれど、あの一件から病気が流行っているみたいですね。エリセお嬢様も同じように高熱を出して寝込んでいるらしいです。それに使用人も多くが立て続きに怪我などをして、今は休暇を取る者が多く、本邸は忙しいようです」
──まるで呪われているみたいだ。と、ベッドの傍らで林檎を剥くソフィアが言うので、ノクティアは布団の中でギクリとしてしまった。
確かに自分が〝そうなれ〟と念じたが、どうして自分までこうなるのかは分からない。
スキルやヴァルディにならば何か理由を知っているだろうか……。ノクティアは眉を寄せて黙考する。しかし、聞くにしてもそれはソフィアが去った後でだ。
「さてと。林檎を剥いておきましたので、少しでも食欲が出たら食べてくださいませ」
ソフィアは一口大にカットした林檎をサイドテーブルに置くと、本邸で欠けた使用人の穴埋めがあると早急に部屋を出て行った。
そうして部屋に誰も居なくなった途端だった。一羽の蝶がふわふわとノクティアの目の前を飛び、一羽のカラスが姿を現す。
『よーっす、ノクティア。目ぇ赤っ、無事じゃ無さそうだな』
「あれ、スキルは?」
丁度良いタイミングで現れてくれたとは思ったのに、片方だけ現れるのは予想外である。二羽はいつも必ず同じタイミングで現れるのに……。
『疲労困憊して冥府で休んでんだよ。なんかさぁ、おまえが復讐にあれこれやった時にスキルの目を使っただろ? あの後から調子が悪いみてぇなんだよなぁ。ぐったり寝てら』
「あんたたちでも調子悪いとか、あるんだね……私もこの件が聞きたかった」
『こんな事は初めてだけどなぁ。そんでさ。僕、会って思ったけど……ノクティア、おまえさぁ』
──魂が前以上にボロボロになってんぞ。
そう言われてぱっとしない。ノクティアは目を細めて、ヴァルディを射貫く。
「見えないから分からないんだけど……」
『ああ、そっか。喩えるなら、なんだろう。引っ張ったら簡単に引き割けそうな小汚いボロ雑巾みてぇだな。色もすげぇ濁って排水の色みたい』
絶妙に嫌な喩えだった。とはいえ、死に戻った直後の状態だってよく分からない。
小汚い、濁っている……それに等しい言葉は聞き慣れているはずなのに、どうにもノクティアに苛立ってしまった。
「私寝たいの。ヴァルディもうあっちにいってよ」
そう告げてノクティアは布団をかぶる。布団を隔てた向こうから、ヴァルディの軽い返事が聞こえた。しかしその声はいつものような明るさは無かったような気もした。
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その日の夕刻、ノクティアは得体の知れない畏怖に冷や汗をかいて目を覚ました。
それは起きても続いた。まるで海に沈んで行く時のような冷たさと圧迫を肌に感じるのだ。悲鳴を上げて、藻掻くノクティアのもとにソフィアは泣きそうな顔で駆け寄った。そして、部屋を出て行き、暫くすると今度はソルヴィを連れてやって来る。
本当に自分はどうしてしまったのだろう。自分が明らかに異常だと分かる。怖くて堪らなかった。ソルヴィはノクティアの手を握りしめ、いつもの愛称で呼ぶ。
そうしているうちに少しずつ落ちついてきた。彼の声は近くなり、ノクティアは涙で濡れた目をソルヴィに向ける。
「ノッティ……大丈夫か?」
ようやくはっきりと彼の声が聞こえた。ノクティアが頷く。すると、彼は安心したような戸惑ったような曖昧な表情を見せた。
「本邸の方も使用人とエリセお嬢様がノッティみたいな状態で阿鼻叫喚だ……それでだな、おまえに聞きたいが……」
──これは全部おまえの仕業だろう?
そう聞かれてノクティアは目を瞠る。答えられなかった。否、どう答えて良いのかも分からない。
「信じたくないし疑いたくなかったが、タイミングが全て合致している。その反応じゃ図星だよな」
彼はそう言うと、ノクティアの手を解くように離して、眉間に険しく皺を寄せた。
「おまえが酷い事をされたのは分かる。今回だってそうだ。腹が立っているのも許せないのも分かる。分かるが、これ以上は俺も許さない。たとえ妻のおまえであっても許せない」
そう告げられた途端だった。爆ぜるように憤怒が湧き上がり、目の前は溺れるように潤った。
「ソルヴィに何が分かる! 怖かった! 痛かった! あの時、殺されるかと思った! 忘れられる訳がない……恨むなとか勝手だ! 私はそうじゃなければこんな力を授からなかった、魔女になんてならなかったのに、ならなかったのに……」
自分でも何を言っているのか、ノクティアには分からなかった。ただソルヴィを罵り続けるが……ノクティアの言葉が途切れた瞬間ソルヴィはゆったりと形の良い唇を開く。
「なぁ、それでおまえは救われたのか?」
これまでに聞いた事ない程に冷え冷えとした口調だった。
合わさった蜂蜜色の瞳は見た事も無い程に冷たい。それがどこか蔑むもののように見えて、ノクティアの思考は一瞬で冷え切った。
そこに恋愛的な愛情が芽吹いていないにしても、好意的に見てくれていたと思った。〝気楽にやっていけば良い〟そう言ってくれたのは救いだったが、やはり、結局はこの結婚は自分のため。親の面目のため。ここまで呆気なく冷たい反応ができるものかとノクティアは唖然とするが、すぐに納得する。
確かにそれはそうだ。貧困街育ちの庶子を妻にして誰が嬉しいものか。いくらエリセより好みだったと言ったにしても、究極の二択だったに違いない。結局は厄介者には違いなくて……。
ノクティアは俯き、しゃくりあげるような息を上げて嗚咽を溢す。
しかし、どうしてこんなに悲しいのか分からなかった。
「……頭を冷やせ」
吐き捨てるように言って、ソルヴィは部屋を出て行った。