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18 侍女に伸びる悪意の手

 読み書きの授業を中断し、自室に戻ったノクティアは泥のように眠った。

 次に目が覚めた時には、室内に茜が差しており、ベッドの傍らでソフィアが縫い物をしていた。


「起きられましたか? ノクティア様」


 ノクティアは頷き、身体を起こし上げる。


「あの教師は……?」

「お茶を飲んですぐに帰りましたよ。ノクティア様、身体のお加減は……」


 心配そうに訊かれるので、ノクティアは「大丈夫」と答えるとソフィアは安堵した表情を浮かべてた。

 裁縫のきりが良かったのだろう。彼女は糸を留めて切ると、少しばかり緊張した面でノクティアに向き合った。


「ノクティア様、あの教師は早いうちに解雇して貰えないかエイリク様かソルヴィ様に相談しましょう。嫌な予感がします」


 その言葉にノクティアの表情が曇る。確かに嫌な雰囲気は感じたし、怖いと思ってしまった。しかしトビアスは明日も来る予定だ。


「でも、どうして……あんたは私を庇ってくれたの?」

「あんなに怯えた顔をすれば分かりますよ。ここに来られた時、私はノクティア様を守れなかった。けれど今度は違う。相手は使用人ではないです。未然に防げるならそれだけの事をしたいだけです」


 ソフィアはそう言うと、優しく笑んでノクティアを見つめた。しかし、本当に答えになっていない気がする。これだけではどこまでも良い人にしか聞こえない。


「他人でしょう。それも私は庶子。あんたにそこまで庇って貰うような義理なんてないよ。私に何か対価を求めているの?」


 思ったままを聞くと、ソフィアは少しばかりキョトンとした顔をするが、すぐに首を横に振る。


「ただ……ノクティア様が私の妹と歳が近いので重ねてしまうのかも知れません。それに、私もこの屋敷では庶民階級出身の下女です。使用人の中では立場が弱く本当の下働きなのですよ。ノクティア様とはほんの少しだけ似たような境遇のはじき者です」


 だから放っておけない。屋敷に来たばかりあの時に罪滅ぼしという訳ではないが、助けになりたい。と、彼女は言う。

 それも真っ直ぐな眼差しを向けるので、この人はどこまでも純朴に思えてしまった。


 ……彼女は信じて大丈夫だろう。

 改めてそう感じたノクティアはため息を一つ溢し、ソフィアを見て呆れたように笑む。


「あんた純粋すぎ。詐欺師とか変な男に騙されないでね?」


 そんな風に言うと、彼女はびっくりした顔をするが、すぐにクスクスと笑った。


 ソルヴィは外出していたようでその日は帰りが遅く、顔を合わせたのは翌日となった。

 朝食の席でノクティアはソフィアと一緒にソルヴィに昨日の教師の話をした。

 今日、ソルヴィとエイリクの二人は、少し離れた村へ行く用事があるらしい。朝食後すぐに離れにやって来たエイリクにもこの話をした。


「そういう訳だそうだ。今日の要件は断れるものか?」


 ソルヴィの問いに、エイリクは眉を寄せて首を振る。


「村長と税や作物の出荷についての大切な話などをしますからね。昨日予定を摺り合わせたばかり。引き継ぎの大事な時です。相手側の時間を無碍にするのは信頼にも」


「そうだな、早々に済ませて帰るのが正解かもな」


 ソルヴィの言葉にエイリクは深く頷く。用事が済んだら早急に戻りましょうと……。


 片やエイリクは、ノクティアとソフィアの方を向くと、教師の人選を誤ったかもしれない事を謝罪した。


「良い青年に見えましたが、歳を取った男の私に見せる表情と、若い娘に見せる表情では違うのかもしれませんね。ソフィア、万が一にも教師がノクティア様に悪意が向けたと判断した時点で追い出してください。身の危険を感じたら、直ちに二人で逃げるように」


 エイリクの言葉にソフィアは真剣な眼差しで返事していた。


---


 午後一時を回った頃──今日もトビアスがやってきた。


「こんにちはノクティア。具合は?」


 相変わらず淡々とした調子だ。

「大丈夫」とノクティアは短く答えた。


「では、早速昨日の分を取り返しましょう。時間は有限です」


 席について、早速書き取りの授業が始まった。

 しかし、早々のミスで トビアスはノクティアの手をまたも叩く。


「何度言ったら分かるのです? この綴りは違います。呆れますね、貴女は五歳児以下の知能ですよ……」


 確かにそうだ。教養なんて無い。ノクティアはトビアスを怯えたように睨みつつも唇を開く。


「叩くとかそういうのはやめてくれない? 気分が悪い」


 はっきりとその旨を告げると、彼は少し考えたような表情をしてノクティアに向き合った。そうして、隣に座したノクティアの太股に手を置く。


「そうですか、ならば別の嫌な事に変えましょう。気が進みませんが……」


 そう言って、彼がノクティアのスカートを掴んだ瞬間だった。部屋の傍らで縫い物をしていたソフィアが布を投げつけ、恐ろしい勢いでトビアスの手を払った。


「……貴方はノクティア様に何をするのです?」


 穢らわしい。と冷たくソフィアが告げた瞬間だった。トビアスは突如ソフィアの腕に掴みかかり、彼女を床に押し倒した。

 鈍い音が響く──強引に倒されたソフィアは、目を瞑り顔をしかめていた。


「何って? 罰ですよ……証拠も残らず供述しようも信じられない。女にだけできる罰〝辱め〟ですよ? 確かに私は雇われましたが、なぜ浮浪児に教育しなくてはならない? 私の従兄弟はここの使用人ですが、話は聞いています。庶子とはいえ教養も無い娘をいきなり貴族の妻になるなんざ不愉快ですよ」


 そう言ってトビアスはソフィアのお仕着せのボタンに手をかける。ぱつん──と、ボタンが飛び、ソフィアの顔はたちまち引き攣った。


「どんな罰か〝奥様〟はそこで見学してください。この侍女に実践してさしあげましょう。どうせこの屋敷に貴女の味方はいないのでしょう、貴女の言葉を誰も信じませんでしょうし」


 ……やはりこの男は、内部と繋がっていたのか。そんな事だろうと予測もできたが、やり口があまりに卑劣で最悪だ。


「嫌ぁあああ! やめて、いや……!」

「馬鹿な女だ。抵抗されるほど、そそりますよ」


 男の手がブラウスから覗く彼女の下着を引っ張った。ソフィアは逃げるように身をよじって甲高い悲鳴を上げたと同時──ノクティアは反射的に男の側頭部に蹴りを入れた。

 しかし一発では気が治まらない。仰向けに倒れた男の顔にノクティアはもう一撃、強い蹴りを入れた。眼鏡が砕け鼻血を出し、男は呻き声を上げた。


「──逃げるよ!」


 ノクティアはソフィアの手を掴み、彼女を立たせるなり中庭に出る。


 この小さな庭の奥には抜け道があって本邸の玄関前のアプローチ前へと続いている。

 葉の落ちた枯れた蔓薔薇のトンネルを抜け、ノクティアはソフィアの手を駆け抜けアプローチに出た途端だった。


「おや、ノクティア様。そしてソフィア。こんな場所で何しているのです?」


 ──授業中ではないですか? 

 声を掛けてきたのは、エリセとの面会でノクティアを羽交い締めに押さえつけた男だった。


 この男は、あの現場に居合わせた。ノクティアの顔はたちまち青ざめる。

 嫌な事に気付いてしまった。あの教師がどこか見覚えがある顔だと思ったが、この男とどことなく似ているのだ。

 そう思った途端だった。


「さすがは貧困街の浮浪児……教養が無いから暴力に出る。こんな娘を妻にするなんざ次期当主はいかれている」


 眼鏡が割れ、鼻血で汚れたひどい顔──よろよろとやってきたのは、先程殴った教師だった。


「ああトビアス。なんと酷い。その怪我はノクティア様に?」

「ええ……の手本を見せようとした途端に」


 並ぶと、本当によく似ている。

 真っ青になったノクティアが震え上がった途端だった。


「貴方たちの言う〝躾〟は間違っている。こんな事はあってはならない。ノクティア様は既に旦那様の妻です。その肌に触れるなど許されるはずがありません」


 ソフィアがノクティアの手をやんわりと解き前に出た途端──二人は顔を見合わせたと同時ソフィアに掴みかかった。


「そうかよ。じゃあ、その野蛮な奥様の代わりに、おまえが責任を取ってくれるのかよ?」


 そうして男使用人はソフィアを樹木の影へとに引き摺り込むなり、乱れたブラウスに手を伸ばす。

 まるで悲鳴をあげるように、ブラウスは裂かれた。

 彼女は悲鳴を上げるが、即座に彼女の唇は、男の大きな手で塞がれた。


「──ソフィアに触るな!」


 ノクティアがソフィアを羽交い締めにする男たちに掴みかかるが──痺れを切らした教師に首を掴まれ、押し倒された。


 首が絞まる。気道が潰れはくはくと息をして、ノクティアが暴れ藻掻く中──遠くでカラスが騒ぐ声が響き、間もなく馬の蹄の音が聞こえてきた。

 二頭の馬が向かってきた。その一頭の毛並みは真っ黒でソルヴィの愛馬ミルクルだと分かる。


「ノクティア様! ソフィア!」


 エイリクの怒声が劈き、男が怯んだ。その途端に気道の圧迫が緩み、ノクティアは激しく咳き込んだ。


 涙で濡れた視界の先に映るのは、やはりエイリクとソルヴィだった。


「おい……おまえたちは俺の妻と妻の侍女に何をした」


 青筋を立てたソルヴィは、二人の胸ぐらを掴んで、低く問い糾す。二人の男は、黙り込み無抵抗を示すよう手を上げた。


 それからややあって、拘束された二人はエイリクとソルヴィに連行され、馬車に向かって歩かされていた。


 ノクティアはそれを眺めて、下唇を噛む。

 自分のせいでソフィアまで危害が加わった。証拠さえなければ……なんて卑劣な事がまかり通るなんて。


 ──あんな不埒な輩は頭が割れる程の頭痛が起きればいい。高熱を出して苦しみ続ければいい。何カ月も生死の狭間を彷徨い、悶えて苦しめば良い。


 そうなれ。そうなってしまえ。〝死に等しい〟苦しみを与えろ。と、ノクティアが心の奥底で強く念じ呟いた途端だった。


 二人に連れられて行く男たちは、途端に激しく悶え苦しみ始めたのである。


(……いい気味だ)


 遠巻きで眺めるノクティアの唇には、歪んだ笑みが乗っていた。

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