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6 夢のような現実

 身体が温かい。温かくて心地が良い。何だかホッとした気持ちのままノクティアが瞼を持ち上げると、木目の天井が映る。


(……私は)


 確か冥府に行った気がしたが……。記憶をたぐり寄せている矢先だった。規則正しい寝息が間近から聞こえてノクティアはびっくりしてしまった。

 椅子に座ったまま男が眠っていた。彼は自分の眠るベッドに身を寄せるようにして、伏せて眠っている。


 赤銅髪の青年だった。肩幅を見るからになかなかガッチリとした体躯だろう。素朴な墨色の上衣を纏っているが、生地の毛羽立ちを見るからに、そこまで裕福そうに見えない。恐らく平民だろう。


 彼が助けてくれたのだろうか……。


 ノクティアはゆったりと身体を起こそうとするが、身体が起きる事を拒絶した。全身筋疲労でも起こしているかのよう。節々が痛くて堪らなかった。

 その上、今更のように自覚するが、喉がヒリヒリと痛くて堪らない。高熱を出しているような体感だ。熱なんて滅多に出した事が無い。恐らく幼少の頃に二度か三度くらいだろう。こんな体感はあまりに久しぶりなので、ノクティアは困惑してしまった。

 そうしてベッドの中でもぞもぞと悶えていれば、それに気が付いたのか、彼はゆったりと瞼を持ち上げる。


 蜂蜜のような琥珀色の瞳とすぐに目が合わさって、ノクティアが驚いてしまった。


 体格から想像するに、厳ついだとか精悍そうな顔立ちの若者かと勝手に想像していたが、その目の輪郭は非常に穏やかな曲線を描いており、とても優しい目元をしていた。鼻梁もスッと通っており──目鼻立ちがとてもはっきりしている。そんな彼は、口元を押さえて欠伸を一つすると、ノクティアに目をやった。


「……起きたんだな、良かった」


 低く平らな声色だった。大丈夫か? と、続け様に訊かれて、ノクティアは無言で頷く。

 自分より五つ、六つと年上だろうか。声色も相まって、大人らしい落ちつきを感じられる。


「今朝、海岸に転がっているのを見つけたんだ。即刻診療所に連れて行って怪我の処置だとかして貰った。まぁ、命に別状はなくて安心した」


 そうだったのか……。しかし医者に診られたと。


「私、お金持ってない……」


 診察料の事をすぐに言えば、彼は首を横に振るう。


「大した出費でもないから気にするな。一応、服に関しては医者の奥方に着替えさせて貰っている。寝間着は差し上げるとの事だ。あと着替えもくれた。若い娘っ子が着るには地味だが、良かったら着て欲しいと起きたら伝えてくれと……」


 そう言って彼の視線の先を見ると、衣紋かけに灰色のウールのワンピースがかけっていた。

 眠っている合間にこんなにも他人に世話をかけていたとは……。ノクティアは少しだけ申し訳なく思って眉を寄せる。


「そう……色々と世話をかけてごめんなさい。でもありがとう。それで、あの。ここは……あんたは誰?」


「ヘイズヴィークとの境目に近いビョンダル領だ。ヘイズヴィークから西に向かった海沿いの小さな集落だな。俺はソルヴィだ」


 彼はそう名乗って、唇を綻ばせる。


「そう。ソルヴィ本当にありがと……私、ノクティア」


 今一度ノクティアが礼を言うと、彼は優しげな目を細めて頷いた。


 しかし、ヘイズヴィーク領とビョンダル領の間と……。

 医者に診られた事を考えると、侯爵家に居場所を嗅ぎつけられるのは、すぐだろう。否、もう割れているかもしれない。助けてくれたソルヴィに申し訳ないが、一刻も早くここを出て行った方が賢明と思った。


 だが、身体が思うように動かない。焦燥に不安がたちまち翳り、たちまち目の前が溺れるように潤い霞んできた。


 しかし、おかしい。なぜこんな事で泣くのか……自分でも変だと自覚するが、大粒の涙は、頬を伝い始めて止まらない。

 初対面の男の前でこうも泣くのも恥ずかしくて仕方ない。それなのに、もどかしさや悔しさの感情が溢れ、嗚咽が絡み始めた。


 急に泣き出した事に困惑しているのだろう。ソルヴィは、眉を寄せて心配そうにノクティアを覗き込む。


「どうした、どこか痛むのか?」


 どう答えてよいかも分からない。首を振ると彼は、指を伸ばしノクティアの頬に伝う涙を無骨な指で掬うように拭ってくれた。


「怪我の状態を見る限り察する。ノクティアが〝相当なワケアリ〟で恐い思いをしたのは分かる。いいから、今は瞼を閉じてゆっくり寝ていろ」


 ──この部屋もこの家にもノクティアを脅かすものは一つもない。

 そう穏やかに告げると、彼は布団の中からノクティアの手を見つけ出すと、やんわりと握りしめた。まるで幼子でもあやされているようで心底恥ずかしくて仕方ない。

 しかし、大きな手に包まれる感触は嫌な心地は一つもせず、妙に安心してしまう。


「……ありがと」


 彼は何も言わなかったが、ほんの少しだけ握る手の力を強めてくれた。


 ---


 それからノクティアは再び眠りにつき、次に目を覚ました時には、部屋にソルヴィの姿は無かった。時刻は既に夕刻が近いだろうか。

 棒で持ち上げられた木窓から差し込む光は茜色に色付いている。

 しかし、先程よりも身体の具合は幾分か楽になっており、身体を起こし上げる事ができた。汗も沢山かいただろう。前髪が額に貼り付いていて、ほんの少し不快だった。


 部屋をぐるりと見渡してみる。ベッドの側の小さなテーブルには水差しとコップが置かれており、ノクティアは水を注ぐと一気に煽った。

 その隣には小さく切られた林檎が添えられている。

 丸二日も食べていないが、極限を超えると空腹は大して感じなかった。それでも折角の厚意だ。ノクティアは林檎を摘まむと口に放り込み、しゃくしゃくと食べた。


 ……しかし、冥府ヘルヘイムに渡ったのは夢だったのだろうか。

 ノクティアは自分の左胸周辺に触れてみるが、しっかりと心臓が動いている。


『おまえは今日から死の女神の加護を授かった魔女だ』


 真っ黒な瞳に、雪雲のような灰青色の肌。麗しくも恐ろしい女神に言われた言葉を思い出すが、あまり現実味が無い。


「私、変な夢でも見ていたのかな……」


 ノクティアがそんな言葉を独りごちた途端だった。

 目の前に青白い蝶が二匹ヒラヒラと現れ──次第に雪煙に変わると二羽のワタリガラスに変わった。


『はぁ~夢かと思ったら! 夢じゃなかったってやつ!』

『残念ですよね……夢じゃないのですよ』


 自分の脚元で二羽のカラスが口を開けるなりに喋り始めたのである。

 両方とも男児とも女児とも判別のできない子どもの声色だ。


「え……え? うそ、喋った……?」


 ノクティアは目を何度もしばたたき二羽を交互に見ると、唖然としてしまう。すると、片方のカラスがノクティアの前まで飛び跳ねるように歩み寄る。


『勿論喋りますとも。でないと、あなたの指示に受け答えできないじゃないですか。あ、勿論私たちの声はあなたにしか聞こえませんよ? 私はスキルです』


 ──そしてこちらが、私の片割れのヴァルディ。ともう一羽を示す。

 ヴァルディという方は、ノクティアの脚元で転がって寛いでおり、羽を上げると『うーっす』なんて適当な返事をする。


 死の女神が与えたカラスの一羽、超適当で態度が大きすぎるだろう。ノクティアはずっと同じ表情のまま固まっていた。


 死に戻ってしまったのが事実だった事も驚くが、それ以上にあの時授かったカラスたちがこうも子どものような声色で砕けた態度が予想外だった。


『ん、おい。ノクティア聞いてるか? おーい』


 ヴァルディと呼ばれる態度の大きな方がバサバサと翼を振るので、ノクティアは何度も頷いた。


「聞いてる。聞いてるけど、色々頭が追い付いてないだけ……」


『まぁ仕方ないですね。ノクティアは一度ヘルヘイムに渡ったのだから。簡単にいうと、あなたが亡くなる寸前の強い恐怖の感情と死に戻りの代償に魂に負荷がかけってボロボロなのです。思考能力の低下、情緒不安定……支障はあって当たり前です』


 ……情緒不安定。スキルの言葉を聞いてノクティアは、つい先程、初対面のソルヴィの前で泣いてしまった事を思い出して赤くなる。そうか、だからそうだったのか。


「なんとなく分かった……」


 ノクティアが頷いてすぐだった。

 足元で寛いでいたヴァアルディは跳ね起きて、ノクティアの前に歩み寄る。


『ああ、そうだよ……ノクティアさぁ。いつ義理の妹を殺すの? あと使用人だっけ?』


『ああ、そうですねぇ……私も楽しみにしていますよ。今は体力を回復させつつ、作戦をよく考えないとですねぇ』


 二羽ともに子どもらしい無邪気な声色のままだが、どこか嗜虐的な残虐さが垣間見える。そんな言い方だった。やはり人外だ。人間の子どもにまず無いような不気味さに怖気が走る。


「……本当に私の助けになってくれるの?」


 震えつつ訊くと二羽は『勿論』と同時に答えた。



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