真っ暗な闇の中に青い光がぼんやりと見える。
まるで水の中を漂っているような感覚で、自分が上を見ているのか下を見ているのかも分からなかった。しかしどことなく、懐かしい心地もして安心する。何とも不思議な心地だった。
やがて青い光が近付き──その光に包まれると、視界が一気に開けてきた。
ハッと、ノクティアが意識を取り戻すと、そこは一面冬世界が広がっていた。
見渡す限り大地は青白い氷に覆われており、暗い空には緑と青のオーロラが風に揺れるベールのようにヒラヒラと靡いていた。
幻想的ではあるが、どことなく陰気で侘しい光景だった。
単純に自分が〝夜明けが来ない冬が陰鬱で嫌い〟というのもあるかもしれないが……。しかし不思議な事にこんな寒空のもとにいるのに寒さを感じない。
──奇妙だ。
そう思った瞬間、こめかみに衝撃が走った。その途端に記憶の数々が蘇る。
(……私は、ヘイズヴィーク領に連れて来られて)
使用人たちから摂関を受けて、逃亡している最中に海に転落した。
「あれ私……ここは……」
ノクティアはその場でへたりとしゃがみ込み、自身を抱き締めるような姿勢を取った瞬間──目の前に青白い蝶が現れた。それは目が眩む程の眩い光を放ち、ノクティアは目をきつく閉ざした。
「あぁ、迎えに行くのが遅くなった。悪かったな」
穏やかで優しい女性の声色に促され、ノクティアは再び瞼を持ち上げる。
そこはまるで、氷の城の一室──謁見の間とでもいった場所だった。青白い光を放つ蝶がそこらじゅうに飛び回っており、青白い氷の柱が並ぶ様は幻想的だった。
しかし、目の前に座していた人物を見てノクティアは目を瞠って震え上がった。
艶やかで豊かな黒髪を持つ女だった。年端は二十代も半ばといった妙齢で、恐ろしく顔が整っている。
しかし、その肌は人の肌の色ではない。雪を降らす雲のような灰青色。目は真っ黒で……普通ならば白いはずの強膜が黒い。それも身体は巨大で、通常の人間の三倍ほどの大きさがあるだろう。
纏う服は上質の絹のような艶がある装束を纏っているが、色彩は真っ黒。それも豊かな乳房が溢れ落ちそうな程の露出がある。そんな彼女の周りには、青白い光を放つ蝶が雪の結晶の鱗粉を散らして飛び回っている。
恐ろしいほどに美しい。美しいが、明らかな人外だった。ノクティアが慄くと彼女はニィと笑み、水晶玉を取り出して、その中を覗き見る。
「ほぅ、ノクティアというのか。まだ若い乙女というのに可哀想に……随分酷い目に遭ったみたいじゃないか」
水晶玉を見ながら女はノクティアを憐れむ。しかし誰だろう、この巨大で恐ろしい女は。ノクティアは怯えつつそんな事を思った矢先だった。
「ここは勇敢な戦死者以外の訪れる冥府。我はそこの女神──死の女神とでも言えば分かるか?」
ノクティアの思った事を、答えて彼女は唇を綻ばせる。
ルーンヴァルト王国で語り継がれる神話の中に、死者が辿り着く場所が二つある。
それは、勇敢な戦士が辿り着く場所ヴァルハラとそれ以外の死者が辿り着く場所が冥府と呼ばれるヘルヘイム。ここは後者ヘルヘイムなのだろう。
「どうして思った事が分かるの? とでも言った顔をしているな。人の子の思う事くらい通じるさ」
そう言って死の女神は真っ黒な瞳を細めてノクティアに微笑んだ。
……しかし、自分が死んでしまった事を知ってもノクティアは驚かなかった。むしろ苦しまずに死ねた事にホッとしている自分がいる。命を失ってしまった事に、寂しいだとか悲しいという気持ちは今現在持っていないが、悔しいという気持ちだけ。それと一つ、死んでしまったのならば……一番会いたい人はここに居るはずで。
「女神様……お願いがあるの」
「母親に会いたいのだな?」
麗しいとはいえ、人間離れしている恐ろしさに目を合わせられない。ノクティアが俯いて頷くと、女神は少し困ったような顔をする。
「だが、おまえはあちらの世界に強い未練……恨みがあるのが見えるのさ。そういう者を会わすわけにはいかないのだよ。同じ世界にいても、魂の質が違うからこそ引き合う事はできない。同じ場所には居られないのだよ」
ノクティアが歯を軋ませた。
ならば本当の無駄死にじゃないか。母に会う事も叶わず、どうしてこんな場所に来てしまったのか。ノクティアの腹の中に暗い憎悪が暴れ回る。
「じゃあ、私はどうしたらいいの! ただの無駄死にじゃないの。私はママに……ママに会いたかったのに、もうずっと会えないなんて!」
堪らず声を荒げて女神の方を一瞥すると、女神は穏やかに細めてノクティアを射貫いていた。
「……あんたは死の女神様でしょ。エリセとかっていう私の憎たらしい義妹も、私を撲った使用人も、あいつら全員を苦しめてここに連れてくるくらいできるでしょ……お願いよ」
悔しい、悔しいと言葉にすると、涙が頬を伝い、床に落ちると氷の粒になってころころと転がった。女神はそんなノクティアを見て思案顔になる。
「なぁノクティア。ならばおまえは自身の力で成し遂げてみるのはどうだろうか? 私はおまえの言った事を成す力を持っているが、おまえが自分の力で成し遂げてみた方が良いと思う」
「……え?」
どういう事だ。ノクティアは顔を上げて復唱すると、女神は瞑目して頷いた。
つまり自らの手で復讐を下すという事だろうか。
しかし、自分はただの人間で死人。あの屋敷を末代まで祟れとでもいうのか。ノクティアがよく分からず眉を寄せる。
「案ずるな」
そう言って女神は立ち上がり、ノクティアの前にしゃがむ。そうしてノクティアをやんわりと抱き寄せると、額に口付けを落とした。
その途端だった、涼やかで研ぎ澄まされた感覚が頭から目に走り、やがてそれは心臓に到達すると、全身にたちまち広がっていく。
「これでよし。さぁ、じゃあ今度は腕を出してみろ。おまえを手助けする存在を与えてあげよう」
言われたまま、ノクティアが腕を差し出すと、青白い光を放つ二匹の蝶がヒラヒラと近付き──雪煙となり別の形を作り出す。そうして現れたのは二羽のワタリガラスだった。女神は床に転がって結晶化したノクティアの涙を二つ拾い上げると、二羽のカラスに食わせる。
「この子たちはスキルとヴァルディ。スキルは知恵を授け、遠いところまで見据える目となる。ヴァルディはおまえの行動や決断を促す他、行動の手助けをする。二匹ともにおまえを助ける存在となるはずだ。命じれば従う。そしておまえに寄り添う話相手にもなるだろうよ。本来ならば血の契約だが……涙でも充分だ」
おまえを主人にする契約を結ばせた。女神がそう言うと、二羽のカラスは黒々としたつぶらな瞳をノクティアに向けて、肯定するように鳴いた。
「さぁ、ノクティア。おまえは死に戻り、在るべき場所に帰るのだ。おまえは今日から死の女神の加護を授かった〝魔女〟だ」
そう言って女神はノクティアの額に今一度口付けを落とす。
すると、視界は次第に暗くなり……まるで眠りに落ちる前のようのノクティアの意識は遠のいていった。
※
ヘイズヴィーク領とビョンダル領の境とも言えるフィヨルドの入り江付近──空が白み始めた薄暗い小道を、一人の男は何かを探すように歩んでいた。
大きな斧を背負った背は広く、背も高い──ガッチリとした体格の男だった。
夏季は午前四時にもなれば明るくなり始めるが、九月半ばにもなれば七時過ぎまで明るくならない。現在は、ちょうど七時を過ぎた頃か。そんな事を思いながら彼は欠伸した。
真夜中に緊急の伝達があり、昨晩はほとんど眠っていなかった。そのせいで丸一日は眠っていない。重たくなりつつ瞼を擦り、彼は眠気覚ましにと肩を回す。
やがて水平線の向こう側が金色に色付き始めた。もう間もなく日の出だろう。彼は目を細めてその光景を眺めた。
そうして浜辺に視線を移した途端、視界の端に〝何か〟が映り──彼はすぐさま駆け出した。
浜辺に倒れていたのはまだどこかあどけない顔をした白金髪の少女だった。服は海水に濡れ、靴を履いていない。
……酷い虐待、あるいは乱暴でもされたのだろうか。スカートが捲れて少し露出された大腿には、痛々しいミミズ腫れが無数にあった。
既に亡くなっているのだろうか。その顔は青白く、血の気がない。だが少女をよく見ると、わずかに胸が上下しているような気がした。頸動脈がある部位に指を当ててみる。まるで死体のような冷たさだが、皮膚の質感は柔らかい。そして、微弱ながらも脈がある。
「──っ! まだ生きている!」
彼は慌てて少女を抱えると、急ぎその場を後にした。