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4 遠い記憶と孤独な花

 茜の差し始めた黄昏迫る空のもと、薄紫色の花──ヒースの群生が揺れている。

 岩地に咲き乱れるヒース。この荒涼とした景観は、ルーンヴァルト王国の田舎らしい風景だ。

 吹く風は冷たいせいか、身体の芯から冷えている。それでも今、ノクティアは嬉しい気持ちでいっぱいだった。大好きな母と手を繋ぎ歩いているのだから。


 しかし記憶の中の母とは少しだけ違う。

 細身なものの肌艶が良い。自分と同じ豊かな白金髪にも艶があった。

 それに、幸せそうに自分の名を呼んでくれる。まるで遠い昔のように……。


 その時点でノクティアは自分が夢を見ているのだと理解した。

 けれど夢でもいい。覚めたくなかった。どういったわけか、甘えたくて堪らなかった。今は大好きだった母のそばにいたい。ノクティアは堪えきれず、母の手をぎゅっと握る。


「ノクティアは甘えんぼね。ママはずっと一緒にいるわ」


 ずっと一緒。一番欲しい言葉だった。そう言って優しく微笑んでくれる母にノクティアは少しだけ安堵して唇を綻ばせる。

 そうして二人、ヒースの咲き乱れる小道を歩む。冷たい風が吹くと、薄紫の花弁は暮れる空に舞い上がる。どこか幻想的な風景にノクティアはうっとりした。


 ──ヒースの花が好きだと母はよく言っていた。

 荒涼とした地に力強く咲くさまは、たとえ孤独であろうと強く生き抜いているように見えるから、何だか勇気が貰えるから好きだと言っていた。


『それにね。ヒースの花の色は、ノクティアとあなたのパパの瞳の色に似ているのよ。あとね、パパの住んでいた領地の丘陵はヒースの群生が見事だったの。私はその丘からフィヨルドの入り江を眺めるのが大好きだったわ』


 ヘイズヴィーク……ヒースの入り江を意味する。荒涼とした地だが、自然豊かで美しい場所だったと母から何度も聞いていた。


 けれど、今はそんな話を思い出したくなかった。見たくもない、興味もない。知りたくもない。そんな気持ちが過った瞬間に、ノクティアの脳裏に凄惨な記憶が散った。

 その途端、母はノクティアの手を離す。


「さぁもう、帰らないとね」


 困ったように笑う母の顔がぼやけ始めた。やがて、視界は真っ白に染まり──ノクティアは現に引き戻された。


 瞼が焼けるように熱かった。凍える程に身体が冷たいが、身体の至る場所に熱を持つ鮮烈な痛みが残っている。

 干し草の上に横たわったまま力無く周囲を見ると、真っ暗な闇に静まり返っていた。自分を散々に折檻した使用人たちの姿はなく、周りには誰もいない。

 ノクティアはゆったりと身体を起こし、脱ぎ散らかしたブラウスとワンピースをかき集めると抱き締め、しゃくりあげるような息を上げて嗚咽を溢す。


「……ママ」


 叶う事なら抱き締められたい。会いたい。寂しい。夢が覚めないで欲しかった。

 そんな気持ちが溢れて、涙が後から後から伝ってくる。

 けれど、いつまでも泣き濡れていても仕方ない。〝一人でどうにかしなくてはいけない〟そう言い聞かせて、涙を拭うと、ノクティアは水に濡れて冷たくなったブラウスとワンピースを纏った。


 恐る恐る納屋から出るが、そこには使用人の姿は無かった。

 星の位置を見るからに、夜中十二時をとっくに回って二時か三時くらいだろうか。

 ノクティアは王都に帰る決意をした。

 この周辺はクズリやヒグマが出ると脅されたが、今はそれよりも人間の方が恐ろしかった。動物は基本的に人間に恐怖を感じるから襲うのだと聞いた事がある。しかしここの人間は悪意しかない。


(こんな場所に居続けたら、いつか殺される……)


 ノクティアは物音を立てぬように納屋を出た。

 幸いにも骨に異常は無さそうなので、どうにか歩く事はできた。それでも水に濡れた服を纏い、髪の毛まで濡れているので寒くて仕方ない。身体の底から冷え切って、指先の感覚があまり無かった。

 あまりの寒さに歯がカチカチと鳴ってしまうが、建物の脇を通る時は口を押さえて、わずかな音も鳴らないように尽力する。


 玄関前のアプローチまでやってきた。暗闇の中、屋敷に明かりは見えないが、この様子ならば間違いなく抜け出しても分からないだろう。

 しかし、閉ざされた門にはしっかりと施錠が施されており、びくとも動かない。屋敷の周囲は野生動物の侵入を避けるためか、ノクティアの身長の倍以上に高い塀に囲われている。これを越えるのは至難の業だ。

 その中でも最も低いのは、門の柵だった。しかしここを乗り越えるには、音が立つのは想像できる。

 しかしそれでも……。

 ノクティアは柵をよじ登ると、案の定キィキィと耳障りな音が鳴り響く。


 それでもなんとか一番上に辿り着きそうになった瞬間だった。

 暗闇の中、背後で明るさを感じた。振り向くと屋敷の一室に明かりが灯っている。ノクティアは慌てて柵の上までよじ登り、外側に飛び降りた。

 上手に着地ができなくて尻餅をつくが、ぐずぐずしていられない。玄関の扉が開き、誰かがこちらに近付いてくるのが分かる。


「──ノクティア様っ!」


 その声で父の側仕えというエイリクだと分かった。

 あまりに必死な呼びかけは酷く剣幕にも聞こえる。ただならぬ恐怖を覚えたノクティアは慌てて立ち上がり、その場から駆け出した。


 ---


 こんなに全力で走ったのはいつぶりだろうか。心臓が張り裂けそうなほどに痛くて、脇腹が痛くて仕方なかった。

 しかし、命の危機を感じると人間は限界を超えた力を振り絞れるというのは本当らしい。身体中痛いはずなのに、寒くて仕方なかったはずなのに、その身体は燃えるように熱く、身体の痛みなんてもう気にならなかった。


 だが、その力も無限ではない。次第に速度が落ち、足がもつれてノクティアは転んでしまった。

 膝を擦りむいたのだろう。じんわりとした新たな痛みが広がった。

 しかし無我夢中で逃げているので、王都の方面なんてもう気にしていられなかった。


 もはや突き進む方向は道ではない。はっきりと周囲が見えないので、定かではないが、同じ植物ばかりが生い茂る荒涼とした岩地だろうか。ここがどこなのか、果たしてどの辺りかも想像できなかった。


 屋敷を下り、一心不乱に走った。馬車で来た車道を走れば一瞬で見つかってしまう。そう思って林の中を走ったら、こんな場所だった。

 エイリクが追ってきているのだ。それに、気配だけで分かる──明らかに追跡する使用人の数は増えている。それも全員男の使用人だろう。暗闇が視覚を遮り、精神的にも極限状態に陥っている影響か、感じ取る足音でなんとなく分かるのだ。


 自分を鞭で撲って水をかけて嘲笑する声が頭の中に蘇る。捕まったら間違いなく殺される。あれ以上の暴行を受けてもおかしくない。ノクティアはただならぬ畏怖に目を瞠り、その身を戦慄かせた。

 男の使用人にはどう考えても力では叶わないのだ。あんなに細い、エイリクにだって叶わなかった程だ。


「ノクティア様! ノクティア様! どちらにいますか! 逃げないでください!」


 エイリクが怒鳴る声が間近まで迫っている。

 視線を向けると、背後でカンテラの明かりが幾つか揺れているのが分かる。距離は近い。ノクティアは力を振り絞って立ち上がり、再び道無き道を走り始めた。


 ────もう嫌だ。早く貧困街に帰りたい。イングリッドやジグルドに会いたい。昨日まで当たり前で、好きでも嫌いでもなかった臭くて汚いあの街が恋しくて仕方ない。お腹も減った。身体中が痛い。恐い。もう痛い思いなんてしたくない。助けて、誰か……誰か助けて。ママ、会いたい。助けてよ。


 目の前が曇ってろくに見えなかった。足がもつれて、もう走りたくないと身体が悲鳴を上げている。楽になりたい。そう思った瞬間だった。

 途端に何もかもから解放されたように身体が軽くなった。まるで自由になったような心地がした。


 否──落下している。そう気付いた瞬間、烈しい衝撃とともに恐ろしい冷たさを感じた。口の中に入ってくる水は酷く塩辛い。

 ああ。海に落ちたのだ。それは分かるが、もう身体に力が入らない。身体は深く沈み、空にまたたく星明かりは揺れて遠のいていく。

 固く目を閉ざしたまま冷たい海に沈んでいく──母の最期の瞬間をノクティアはなんとなく思い出してしまった。


(ママ……私も、ママと同じ場所に行きたい。会いたいの……)


 呼吸が苦しくなる前にノクティアの意識は薄れていった。


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