……本当に酷い事になってしまった。
馬車に揺られるノクティアはぐったりとしていた。
彼女は今、口に布を噛まされて手足を布切れで拘束されている。あまりに暴れ叫ぶのでこの処置を取られたのである。
細く薄っぺらい中年の男一人くらい、取っ組み合いをしても倒せると思ったが、この男は予想以上に腕力があった。
『淑女にこんな事はしたくありませんが、どうかノクティア様お許しを。車内ではお静かにして下さいね』
そうして、あれよあれよという間に拘束されてしまったのである。
その後も必死に抵抗し暴れ藻掻いたが、数時間も経過すればさすがに疲れも出てくる。散々に叫んだので喉も痛くてもう何も喋りたくない。
ノクティアはげんなりとした顔で、車窓から流れる景色を眺めていた矢先だった。男は「ああそうだ」と、何かを思い出したように独りごちて、ノクティアを見る。
「ノクティア様。今更になってしまいましたが、私はエイリクと申します」
中年の男はノクティアに丁寧に挨拶をする。
さすがに叫ぶ気力が失せたのを察したのだろう。そこでようやく、エイリクと名乗った男は、口に噛ませた布を解いてくれた。
「私は貴女のお父様、イングルフ様の側仕え。ヘイズヴィーク侯爵家の使用人頭でございます。以後お見知りおきを。これからは、貴女が困った時、私は必ずしや助けになれと、貴女のお父様からご命令をいただきました」
そう言われても何と答えて良いか分からない。ノクティアは、エイリクを一瞥して舌打ちを入れる。
何もかも胡散臭くて、都合が良すぎるのだ。困った時に助けるなど……。どうにも惨めな母ばかりを思い出してしまう。ノクティアが黙りとしたまま、夕暮れ時を迎える秋空を眺め続けた。
途中で馬を変える休憩も挟んで、ヘイズヴィーク侯爵領に着いたのは、宵の帳が落ち始めて一番星が輝く頃だった。フィヨルドの入り江を一望する小高い丘の上に立つ石造りの堅固な邸宅が父の家らしい。
玄関へと続くアプローチの前で馬を止めると、御者は扉を開く。
エイリクはノクティアの手足の拘束を解き、外に出るように促した。
屋敷には既にオレンジ色の温かな明かりが灯っており、使用人と思しき女たちが玄関の前で待っていた。
あの屋敷に入れば、一巻の終わりな気がする。げんなりとしたままの顔のノクティアは、さて逃げようと踵を返そうとした途端、エイリクにやんわりと腕を掴まれた。
「ノクティア様。お逃げになりたいお気持ち察しますが、お腹も減っているでしょう。美味しいご飯を食べて、ぐっすり眠ってから考えてはいかがでしょう」
確かに腹は減っている。今日は一日ろくに何も食べていないのだ。ちょうど、昼食にしようといった頃合いに連れ去られたのだから。
「貧乏人はご飯を与えておけば喜ぶって、よく知っているね」
めいっぱい嫌味ったらしく言うと、エイリクは「ふふ」と柔和に笑む。人が良さそうでありながらも、やはりどこか胡散臭い。
「最もの理由は別にありますよ。この周辺は見ての通り自然豊かでしてね、クズリやヒグマ、ヘラジカなどの獰猛な野生動物が多く生息しております。特にヒグマなんて日没と日の出の薄暗い時刻が最も活動が盛んですからね。この時間のお散歩はおすすめできません」
──いくらロストベインで強く気高く生きてきたと言っても、襲われたらひとたまりもありませんよ。なんて、子どもを脅すように言われたので、ノクティアは眉を寄せた。
ヒグマはルーンヴァルトの森ならどこにでも生息していると聞くが、一度も見た事が無い。古来より動物の中では最も強く〝威厳ある象徴〟とされているので、絵で描かれる事や、木工彫刻にされる事が多い。なので、そういったものでしかその姿は知らないが……昔、母と暮らしていた集落の猟師から、獰猛で執着が強い生き物と聞いていた。その爪に引っかかれれば一撃で肉が抉れると。
遭わない方がいいに決まっている。ノクティアは素直に従う他なかった。
そうしてノクティアは屋敷の中に入るや否や、十人ほどの使用人の女たちに囲われて即刻浴室に連れて行かれた。先導したのは、四十代も半ばといった貫禄のある女で、それ以外は皆若い。恐らく女使用人のまとめ役とその部下だろうか。
しかしこうも大勢に怪訝な顔を並べられれば、言わずとも分かる。このみすぼらしい身なりだ。汚いだの臭いだの言いたいのだろう。
毎日湯を沸かして身体を拭くし、週に一度は桶に湯を張って入浴をして、清潔を保っているが、あの街自体が臭いので、衣類に臭いが移っていてもおかしくない。いたたまれない気持ちになってノクティアは俯いた。
「とりあえず入浴を済ませて下さい。石けんなども用意しているので、きちんと清潔にしてくるように。服や下着の代えも用意してありますので、ご心配なく。髪を洗う手伝いが必要かもしれないので、一人メイドを置いておきます」
女使用人が淡々とそう言うと、皆一斉にその場を出て行った。
ただ一人残ったのは、ノクティアよりやや年上といった風貌の女だった。
大勢いたので、個々の表情なんて見えていなかったが、大抵自分に向けていたのは蔑視の視線だった。しかし、彼女が自分に向ける視線はどうもそれとは違い、戸惑いや不安の色が窺える。
灰金髪に榛色の瞳──と、可憐な風貌ではあるが、いかにも気が弱そうだった。
ノクティアはなんとなく察した。恐らく、こうもオドオドとした性格だから、他の使用人に軽視されて、世話を押しつけられたのだろうと。
とんでもない貧乏くじだ。そんな風に思うと、彼女がほんの少し憐れに思えてしまった。
しかし自分に恐れる要素なんて、あるだろうか?
確かに育ちが悪いが、いきなり噛むだの殴りかかるだのしないのに。それに厳つくもないし、極めて普通の見てくれだ。こんな自分の何が怖いのか……。
きっと、タトゥーだらけのイングリッドやジグルドを目の前にしたら、彼女は泡を噴いて卒倒してしまいそうだ。そんな風に思うと、ほんの少しおかしく思えてしまう。
「あの……髪を洗うお手伝いしましょうか」
不安そうに訊かれたのでノクティアは首を振る。
「……髪はいつも一人で洗っている。着いてこなくて大丈夫」
それだけ告げると、ノクティアは服を脱ぎ浴室に向かった。
そうして入浴を終えた後、待機していた彼女にタオルで髪を乾かして貰い、用意されていた服を着せて貰った。
着せられた服はジャンパースカート状の民族刺繍の入ったドレスにブラウスを合わせたもの。ルーンヴァルト王国では一般的なブーナットという装束だった。しかし平民が着るものとは違い、見るからに質が良い。ここまで肌触りは良い服を着た事があっただろうかとノクティアは布の肌触りの良さに驚いてしまった。それは真っ先に身につけた下着も同様だが……。
(貴族の生活って恐い……)
あんなに広々とした浴室で湯に浸かったのも初めてだし、香り高い石けんにも驚いた。石けんで身体を洗えば肌が乾燥して引き攣られるし、髪もパサパサになるのにそれがない。鏡の中のノクティアの豊かな白金髪は見た事も無い程に艶やかなものに変貌していた。
入浴前の自分の姿が嘘のように思えてしまう。それは髪を梳かして整えてくれた、彼女も思ったのか鏡の中のノクティアを見て驚いた顔をしていた。
そうして脱衣所を後にした後、食事にありつけるかと思いきや……ノクティアが通された場所は、ソファとテーブルに最低限の調度品が置かれただけの簡素な応接間だった。
すぐに目を惹いたのは、ソファに座した少女の存在だった。
──艶やかな栗毛にきめ細やかな白い肌、彩る瞳は新緑のような若苗色。自分と年齢はそう変わらないが、見た目はどこか大人びていて、美しい。
しかしこうも大人っぽく見えるのは、薄っぺらい身体付きの自分とは違って、胸や腕、尻周辺に肉がきちんと付いているからだろうか。
目を奪われたのは彼女も同じようで、入室したノクティアに釘付けになる。
暫し舐めるように見つめ合った後──彼女は唇を拉げて険しい顔をする。
「半分同じ血が流れているはずなのに、私とは似ても似つかないわね。髪色が全然違うわ。あら。瞳の色はお父様と同じね……」
声色は甘い。だが、どうにも鼻につく毒々しさがある。
「あんたが、えっと……」
間違いなく義妹と分かるが、名前は何だったか。ノクティアが眉を寄せると「エリセ」と彼女は淡々と名乗り舌打ちを入れる。
この態度から歓迎されていないのはよく分かる。
しかし、彼女が婚姻を断ったから、自分が攫われるようにして、ここに連れて来られたのだ。
控えていた使用人に促されてノクティアはエリセの前のソファに座すると、彼女は顎を聳やかしてノクティアを睨む。
「ようこそ、お義姉様。ヘイズヴィーク侯爵家に」
吐き捨てるように言って、エリセは顔を歪めた。