初雪が降り始めたその日。母はこの世を去った。
医者にかかる余裕が無かったので、詳しい理由は不明だが病気だった。
母は、とても優しくて沢山笑う人だった。
けれど、病気に罹ってからというものの、待てど暮らせど迎えに来ない父の名を呼び続けるようになり、心まで壊れてしまったらしい。
『大好きよノクティア。私の大切な宝物』
いつだって愛おしそうに、優しく名前を呼んでくれたのに。絵を描けば嬉しそうに見てくれて、柔らかな手で頭を撫でてくれたのに。病気に罹ってからというものの、母から自分の名をめっきり聞かなくなっていた。
父なら病気の母を助けてくれるかもしれない。ノクティアはそう思ったが『それは無理だろう』と、自分たちをいつも気にかけてくれた母の姉──伯母にそう言われた。
──貴族の息子と使用人が愛し合った。その間で生まれたのが自分。ノクティアは母からそう教わっていた。
そもそも、〝父が母と結婚しなかった事〟が全てを物語っている。
平民の娘を孕ませて妊娠が分かれば、金を与えて厄介払いをしている。あまりに大きな身分差だ。その上、父はその直後に貴族の娘と結婚しているとの事。
『……あんたのお父さんは助けてくれないよ。手切れ金を与えて、あんたのお母さんを屋敷から放り出したのだから。あぁ、可哀想に』
伯母はノクティアをきつく抱き締めて、涙を流して憐れんだ。
手切れ金は、六年間の二人分の生活費でとうに尽きたようだった。
金は無い。土葬する場所を買う金も無ければ墓も作れない。だから、村の人たちは母の亡骸を海に還してくれた。
──死者は海を渡って冥府へと向かう。
この地で信仰される神話の中でそんな一節がある。だからこそ、この手段を選んでくれたのだろう。
最期の別れだと小舟に乗せられて、冷たくて暗い海に沈んでいく母を見てノクティアはただ呆然とする事しかできなかった。
その後、ノクティアは伯母に引き取られた。
とはいえ、その生活も非常に厳しいもので、その日暮らしだった。
伯母の夫は十年以上昔の戦で亡くなっていた。それから数年後に再婚したらしいが、二番目の夫は女を作って出て行ったらしい。その夫との間に子どもが二人居るが、そこにノクティアが加わった事で、更に困窮したものとなっていた。
母との死別から五年。ノクティアが十一歳になった頃だった。
あまりの生活苦に腹が減り、ノクティアは農場で畑を掘り返し、腕いっぱいの馬鈴薯を盗もうとした。
悪い事だと分かっているが、みんなで飢えに苦しむくらいなら、少しくらい狡い事をしたって良いだろうと思った。自分より二つ年下の従兄弟はひもじさによく泣いていた。そのくらいの恵みがあっても許されるだろうと、幼いながらにそう思った。
しかし、農場の主に呆気なく見つかり、自警団に突き出されて、ノクティアは伯母に酷く叱られた。
『なんて事をしてくれたの! あなたなんて引き取らなければ良かった!』
──泥棒。と、その言葉はノクティアの胸に突き刺さった。
それでも伯母は家に入れてくれた。夕飯のスープも与えてくれた。けれど、頭にこびり付く言葉は消えなかった。
引き取らなければ良かった。
居るだけで迷惑なのだ。自分さえ居なければ良かったという事だ。
心にぽっかりと穴が開いてしまった心地がした。
その晩ノクティアは家出した。真っ暗な夜道を一人歩み、夜明けと同時に王都に辿り着いた。
母が元気だった頃に、何度か来た事があるこの街は、道は石畳に舗装されていて活気に溢れている。
しかし大通りの裏に入れば表情は一気に変わる。
崩れた壁には意味不明な落書き。空間はツンとした悪臭が立ちこめ、至る場所でネズミが走り回っている。路地に座る人間の目は据わっていて、すれ違う男は大抵の柄が悪く、首や顔にまでタトゥーが入っている異質な者が多い。
『ノクティアいい? この街の裏通りはとても危ないの。大人になっても近付いてはダメよ?』
ふと、母の言った言葉が頭に過った。
『あの街はね。私たちのような貧しい人も住んでいるけれど、この国で一番危険な場所。盗みや強盗を働く〝ならず者〟が沢山いるわ。けれどね、そんな人たちもきっと人としての道を失ってしまっただけなのよ。貧しくても豊かな心で生き続けるのは難しい事よね』
──その点、私にはノクティアが居てくれるから幸せなのよ! なんて、無邪気に微笑む母の顔が蘇り、ノクティアは乾いた唇を噛む。
……貧困街ロストベイン。
幼き日に母が語ったその名の通り、道を失った者たちが辿り着く吹き溜まりだった。
王国ルーンヴァルトの汚点とも喩えられている。
そこに足を踏み入れて住人になったその日から、ノクティアはこう誓った。
自分は絶対に誰も愛さないようにしよう。あれはきっと、破滅に導く呪いのような感情に違いないのだ。
血は受け継がれるもの。だから、きっと自分も誰かの特別になって愛なんて知ってしまえば、母のように惨めになってしまう。伯母のように裏切られて捨てられてしまうのだ。
一人でいい。誰かの手を借りるだとか、仲間になるだとかしても、特別にはならない。
「……私は一生、一人でいいの」
ノクティアはそう心に誓った。そのはずだったが……。