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第四幕 魂に課せられた役目

「満春ちゃん!」

 穴に満春が落ちるのと、蓮夜がその場をかけ出したのはほぼ同時だった。満春が落ちたことによって風は消滅し、穴の近くによって中を覗き込むことが出来るようになっていた。穴は地上からおおよそ二十メートル程度の深さがあって、その中心に少しばかり残った足場の上に満春が落ちてうずくまっている。意識を手放しているのか、こちらの呼びかけに反応する気配はない。

「満春ちゃん……!」

 暗い空を走る稲妻が吸い込まれるようにして穴の中に何発か落ちた。

 ドンっという音がして、満春の倒れている足場の周りを取り囲むように炎が吹き上がる。その炎はまるで意思を持っているかのように熱風と共に穴の中で体をくねらせた。

 さながら妖怪の様に、これから地獄が訪れることを喜んでいるかのように見える。

「この穴……段々深くなってないか?」

 満春がうずくまっている穴の中心に残る足場が、徐々に沈んでいっている。足場の周りは暗く、このまま穴が深まればどこに続いているか見当もつかない。穴の中がまるで異空間のような妙な気配を纏い、地上に向けて気持ちの悪い気を放出し始めていた。

 サネミが今にも乗り出しそうな深雪を落ち着かせるように抱えて穴の中を覗き込む。

「これは……恐らく地獄の穴。地獄とこの世が通じるときに口を開けると言われている穴でしょうな」

「満春の背中にあった痣……六怪異全てを封印するって儀式が終了した今、人間にもたらされる災厄は半減したと言っていい。だがその代わり最後の親玉……閻魔の目がこの穴通ってこっち側に顕現するってことだ。前にも言ったが、閻魔の目は地獄に落ちた妖の塊だ。それが出てくる前にこの穴ごと地獄に還さねぇと、七獄の年は終わったことにはならねぇ」

 サネミと蓮夜の間にロクロウが歩き寄ってきながら言う。蓮夜によって治療されたゆえに歩行できる程度に体力は回復しているようだが、それでも動きはどこかぎこちない。けだるそうに首を鳴らしながら穴に落ちた満春の姿を上から見下ろした。

 穴から吹き上がる熱い風がゴウゴウと音を立てて蓮夜の前髪を散らす。夜の闇に炎の色は嫌に映える。満春に炎は届いていないものの、いつ彼女まで飲み込まれるかはわからない。時間の問題だということをその穴の中で蠢く炎が教えてくるようだ。

「満春を助けて……このままだと、死んじゃうわ」

 泣きそうな声で深雪が言う。

 炎の吹き上がる光景は、さながら地獄のようだ。

「ロクロウの言った通り、六怪異を封印した今、彼女の背中の痣は霊場の役目を果たすには十分のはずです。このまま地獄の穴に彼女が取り込まれたらそれこそ閻魔の目が完全に穴から出てきてしまう……早くどうにかしなければ」

「どうすればいいんだ……どうすればこの穴を塞ぐことができる?」

「そもそも地獄の穴が開いているという事象事態が、この世に生きるすべてのものにとってはよくないですな。地獄の気は生命力を脅かし、精力を枯渇させてしまうこともある」

「どっちにしろ、放っておくって選択肢はねぇぞ」

 ロクロウが穴の淵にしゃがみ込んで、落ちた満春をじっと見つめる。実体化したままのロクロウの漆黒の瞳に炎の色が映りこむ。それはまるで宇宙に浮かぶ太陽のように煌めき燃え続ける。しばらく無言でその光景を見下ろしていたロクロウだったが、やがてため息を吐くように肩を揺らすと、静かにその場に立ち上がって口を開いた。

「閻魔の目をどうにかするには、本来ならば霊場のエネルギーをフル活用して封印する必要がある。力を閻魔の目にぶつけて、相殺する感じでな。だが、時代が進むにつれて霊場の力が弱まってきた。だから呪殺怨霊の記憶にもあったように足りない分を……生贄でも使って補わねぇと封印できなかったんだろう」

 ひどく落ち着いた声で、見てきたかのように言うロクロウの表情は見えない。背を向けて穴を見下ろしたまま、ただそう言った。

「お願い……満春を死なせないで……私がそばにいたから満春は閻魔の目に標的にされちゃっただけなの……助けて、お願い……」

 ロクロウと蓮夜に向けて深雪が泣きながら懇願する。いつの間にか小さくなって深雪の肩に乗っていたアケビも同じように肩の上で頭を下げた。

 確かに、もしも満春のそばに幽霊や妖怪がいなければ……霊障をそもそも受けたことがない人生だったとしたら、彼女は深雪の言う通り閻魔の目の印を背負うことはなかったかもしれない。

 だが、それは今となってみればすべての話に過ぎないのだ。

 それに、満春自身はきっと姉である深雪を恨んでいないだろうし、彼女こそ死んでしまってもそばにいてくれる姉に感謝しているはずだと……蓮夜は察していた。

 孤独の時間が長かった蓮夜は、正直逢坂姉妹が羨ましかった。

 それは、一番に考えられる相手が自身の他にいるということに対しての憧れだったのかもしれない。血のように深い縁で結ばれた存在がいるということが、羨ましかった。


 自分は大人にはなれないかもしれない。


 あの日、畦道で祖母が言った言葉の意味が……自分の魂に課せられた役目が今ならどういうことなのか、よくわかる。

 運命という言葉は好きではなかった。だけど、今ならそれを受け入れてもいいと思える。

「……深雪さん、大丈夫だよ」

 嗚咽する深雪に向かって静かに言う。

「満春ちゃんは死なない。霊場として閻魔の目の生贄にもならない」

「蓮夜……」

「この後出てくる閻魔の目に霊力をぶつけて相殺してしまえばいいんだ。それは……夏越家である僕がやるべきことだ。夏越家は代々閻魔の目を討伐してきたし、ばあちゃんの跡取りになる僕の役目でもある。だから、」

 まっすぐ皆を見渡しながら、蓮夜は静かに続けた。

「封印に生贄が必要なら僕がなる。いつかこの時が来るのはわかっていた……それが、僕の使命だから」

「まって蓮夜、そんな……ダメよ!」

 他に方法はないのと涙ぐむ深雪に向かって、にこりと笑って見せる。酷く穏やかな気持ちだった。

「心残りはないんだ。……元々友達は少なかったし、常に何かに怯えて生きてきた人生だったけど、それでも……この最後の夏はとっても楽しかった。痛いことも大変なこともあったけど、僕にとって大切なものがいっぱい出来たから」

「蓮夜……」

「だから、僕はもう満足なんだ」

 言い終わると蓮夜は穴の淵更にギリギリまで歩み寄って、そこに立つ。再度穴の中を見下ろせば炎と一緒になって何か得体のしれないものが噴き出し始めているのに気がついた。それは触手のように穴の底から生え、満春が横たわる足場を徐々に飲み込もうと炎と共に吹き上がる。さらには、横たわる満春の体の下に目玉のような模様が浮き上がり始めるのが確認できた。それは満春の背中の中心に浮き出ていた目玉と同じものだった。

「閻魔の目は、もうすぐそこにいるんだ……」

 目下に広がる光景に終わりを悟る。

 この穴のすぐ下には地獄が存在していて、閻魔の目がもう地上に出てこようとしている。

「満春ちゃんが取り込まれる前に、僕が代わらないと――」

 この高さから飛び降りるとなれば、受け身をしっかりとれなかったら骨折してしまうかもしれない。だけどもうこの先がないのならそんな心配は無用だと気が付き、一人で少しだけ苦笑した。

 一度深呼吸して、穴の中へ降りるために右足からさしだす。熱風が吹きすさんできて、思わず目を閉じた。

 その一瞬――、


「――待て、」


 すぐそばで蓮夜を見ていたロクロウが、蓮夜の腕を掴んで後ろに引き戻した。強い力にひかれて一瞬たたらを踏んだが、なんとか倒れずその場で踏みとどまる。

 何をするんだ、と反論しようと顔をあげれば、目の前のロクロウは今まで見た中で一番真剣な顔で蓮夜を見ていた。出会った頃と同じ鋭いまなざし……だけど今のロクロウの目つきにはそれ以外の感情が見え隠れしているようだった。

 ロクロウは暫く蓮夜の顔を眺めていたが、やがて静かに切り出した。

「閻魔の目の封印に必要なのは精力というより、エネルギーだ。エネルギーは俺様みてぇに人間と契約した霊体にも人経由で豊富に貯蓄されてる」

「ロクロウ……?」

 何が言いたいのかわからないと、戸惑いの表情を見せた蓮夜に向けてすかさず追撃する。

「……俺様が代わってやるって言ってんだよ。俺様はお前さんと契約してるし、おまけに地蔵付きの悪霊だ。封印するだけのエネルギーはまだ残ってる。閻魔の目をつれて地獄へ落ちればいいだけの話だ」

 なりはボロボロになっているが、見た目だけだとロクロウは言う。

 だが、そんなことは問題ではない。

「何言ってるんだ……嫌だ! そんなの絶対……!」

「……馬鹿だなお前さんは」

「……!」

「俺様は、もともとそこに行くはずだったんだ」

 ロクロウの手がふいに蓮夜の頭に伸びてくる。

「死に急ぐなよ。お前さんにはもう呪殺怨霊の呪いはない。心臓も今後は普通に動いてくれるようになるだろ。早死にする理由なんかねぇぞ」

「ロク、ロウ……」

 蓮夜の頭に乗った手が、ぽんぽんと蓮夜をあやすように撫でた。体温なんかないはずなのに、なぜか暖かく感じたその手が離れていく。

「サネミ、最後に一つ頼みがある。悪いが、穴の中の足場まで一緒に降りて、満春を回収してから早々に離脱してくれねぇか。見届けたらすぐ、穴もろとも目を封印する」

「……承知した」

 サネミは何も言わなかった。一拍間を取った後、少しばかり苦しそうな声で承諾の返事をした。

 ロクロウは満足そうに一度目だけで笑うと、穴に向き直って一度天を仰ぐように顔を上に向けた。目下の穴には炎が吹きあふれる。彼は、今からこの穴と共に消えようとしている。その魂に、全部を背負う覚悟で。

「ロクロウ、やっぱり僕は……!」

 たまらなくなった蓮夜が再びロクロウにすがろうとするのを、深雪が止めた。そのまま蓮夜を穴から遠ざけるように後ろに引っ張ってロクロウたちと距離を取らせる。何をするのかと反論するために振り返れば、蓮夜の腕を掴む手が震えている。思わず深雪の目を見れば、彼女は涙を流したまま蓮夜の顔を同じように見返していた。

「……私が言えたことじゃないけど、でも蓮夜……私もロクロウも、もう死んでる。でも貴方はまだ生きているじゃない」

「……深雪さん」

「満春を助けてって頼んだ私が虫のいい話だってのはわかってる。でも……ロクロウは貴方に生きてほしいのよ。だから……っ」

「…………っ」

 深雪の唇が震える。彼女は自らの言霊の力とアケビの支えで死んでいても常に実体がある。ゆえに涙は本物と何も変わらない。透明で宝石のような涙が、穴から吹き荒れる炎の赤に照らされて儚く煌めいていた。


「さて、と。行くか」

 ロクロウの声に我に返ってそっちを見る。サネミがロクロウの横に並んで穴を見下ろした。

 止めるなら今しかない。でもそれは彼の気持ちを無下にすることになってしまう。

「ロクロウ……」

 蓮夜は何も言えなかった。

 その代わり、前を向いたままロクロウが名前を呼んだ。

「蓮夜、」

 それは、今まで聴いたどんな声より優しい声だった。


「……長生きしろよ」


 言い終わると同時に、ロクロウはサネミと共に穴の中に飛び降りた。

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