「逢坂さん、悪いけど、これを教室の教卓に持って行ってもらえる?」
夏の終わりも近いある日の夕方の事だった。
委員会の仕事を終わらせ、帰り支度をするために教室を目指す満春に担任の教師が頼みごとをしてきた。 どうやら翌朝配る用のプリントらしく、「重要な連絡事項だから忘れないように前日から用意をしておこうと思って。早々と印刷しちゃったの」と、言う。断る理由も特になく、そのままプリントを受け取って教室へ向かった。
徐々に傾く太陽は、満春の影を後ろに伸ばしていく。
教室へ入ると自分以外に残っている生徒はおらず、満春の席に自分の鞄だけがポツリと残されたままだった。
教卓へプリントを置いて、自分の席へ戻って鞄を取る。教室を出て扉を閉めた所で、ふと背後に人の気配を感じた。
反射的に振り返る。この時間に校舎に残っているのは、それこそ文化部の生徒か教員くらいのはずだ。だが、振り返った先にいたのは――、
「……っえ、」
「やぁ、その反応は傷つくよ~。満春ちゃん」
忘れもしない、ライブの日、姉の深雪を好き勝手した妖怪。
そして、蓮夜の相棒を消滅の手前まで追い詰めた張本人――。
「――よ、てき……」
「おやぁ? 名前覚えてくれてたの? 嬉しいなぁ」
けらけらと笑う夜笛を前に、満春は思わず後ろへ後退る。心臓がバクバクと警鐘をならしているのに、足が動かず逃げ出すことが出来ない。
肩からずり落ちた鞄が、ボスンと音を立てて廊下に落ちた。
「君にはちょっと、盾になって欲しいんだ」
怯えた満春の様子に、夜笛がニヤリと目元を歪める。鋭い爪が乗った手が満春の顔に伸びてきて、するりと頬に触れた。
カタカタと震えだす体を抑えることが出来ない。
目の前の恐怖に対して耐えきれなくなった両目から涙が溢れてくる。
「あれー? 泣いちゃうの? 何が君を悲しくさせてるんだい?」
「…………っ」
「うーん? だんまりはよくないなぁ。特にオレみたいな
言った途端、満春の体に夜笛の腕が巻き付いて、そのまま抱えあげられた。
「いや!! 助けて、お姉ちゃん!!」
その声だけが、廊下に残された。
***
軽音楽部の教室で、片づけをして帰宅していく後輩を横目に、深雪は楽譜を眺めていた。そろそろ日が傾く頃だ。帰らなければいけないと立ち上がった瞬間。
「…………満春?」
ふいに、妹に呼ばれた気がした。
教室を見渡しても、妹の姿はどこにもない。だが確かに声が聴こえた気がしたのだ。
「…………」
嫌な予感が、ゾクリと背を這う。
導かれるようにして教室の窓側へ行けば、ちょうどその時、校舎から校庭へ向かって何かが飛び上がった所だった。
「……夜笛!?」
見間違うはずがない。自らの部屋に侵入し、暗示をかけた張本人。どうしてここに、と思う前に、その手の中に納まった人物に深雪は目を見開いた。
それが紛れもなく、妹の満春だったからだ。
「満春!!!」
思わず窓を開けて叫ぶも、夜笛はこちらに見向きもしない。
「何よ、なんだってのよ……!」
深雪は慌てて鞄に駆け寄ると、中からスマホを取り出して素早く連絡先を表示させる。
夏越蓮夜と書かれた部分をタップすれば、ものの数コールで聞き馴染んだ声が染み出して来た。
「蓮夜!? 今すぐ学校の校庭に来て!! 満春が大変なの!」
半ば捲し立てるような形で言ったにもかかわらず、その一言で蓮夜は何が起きたのかを察知したらしい。
『落ち着いて、深雪さん。今どこ?』
電話越しに蓮夜が問う。
「軽音楽部の部室!」
『――わかった。実は……夜笛はいずれ来ると思っていたんだ。深雪さんにお願いしたい事があるから、そこにいてほしい』
すぐに行くから。
そういうや否や、蓮夜は一方的に通話を切り上げた。
ツーツーとか細い音だけが残るスマホから、深雪はゆっくりと耳を離す。
(冗談じゃないわよ、本当に)
窓の向こうを睨みつければ、色を濃くした夕日の光が目に刺さる。
(満春は……あの子が何をしたってのよ)
これは誰に対する文句なのだろう。
妹に加害する奴は、たとえ誰であろうと許せない。
そしてその中にはきっと、彼女をこんな運命に導いた自分自身も含まれているのだ。
***
「レ~ン君、顔が怖いよ」
部活で校内に残っていた深雪から知らせを受けて蓮夜が駆けつければ、夜笛はまるで蓮夜が来ることなんかお見通しだったと言わんばかりの表情でそう言う。空間隔離の術を使っているようで、箱之蟲の時のように周りの生徒達はいなくなっていた。満春の背後から首に手を回し、彼女をまるで盾にするかのようにして話を続ける。
「驚いちゃったよ~。風の噂で聞いたけど、悪霊……ロクロウ無事だったんだって?」
「夜笛、満春ちゃんを放せ」
「あれ、レン君怒ってる?」
「……確かにロクロウは無事だった。でも、それ以前に夜笛が深雪さんにやったことは良くない。どうして人の心を搔きまわすような事をするんだ」
息を整え、落ち着き払った声でそう問いかければ、夜笛は一瞬黙ったのち、フッと口角をあげて続けた。
「簡単な話だよ。オレは自分の命が大切だったからだよ」
「自分以外は……どうなってもいいのか?」
「だからそうだって言ってるじゃん」
言いながら夜笛は、満春を左手に拘束したまま、空いている右手を一度払う。すると強い風が一瞬のうちに生まれ、それは蓮夜めがけて飛ぶと頬を深く切りつけてくる。
「…………っ」
頬に走った激痛に蓮夜は一瞬だけ顔をしかめるものの、これと言って大きな反応をあえて示さない。ジッと夜笛を睨みつけるように視線を合わせる。
「その目、嫌だな」
視線に居心地の悪さを感じた夜笛が、二度三度と同じように風を飛ばして蓮夜の肩や太ももを薙ぐも、やはり蓮夜は避けることはせず、一方的に攻撃を受け続ける。
「なんでやり返さないの? この期に及んで、オレに情けでもかけてんの?」
「……夜笛」
「オレはもう、レン君なんかどうでもいいと思ってるんだ。だから……殺すよ」
そう言った夜笛が更に蓮夜を攻撃しようと右手を振りかぶった瞬間、遠方から銃声が轟き、一瞬のうちに夜笛の右手に風穴を開けた。
「⁉」
右手を撃ち抜かれたと理解した夜笛が、拘束していた満春をその場に突き飛ばして大きく飛び上がる。銃声はその後幾度か夜笛を狙ったが、彼は軽やかに飛び回ってそれを全て避けてみせた。
「……銃ってことは、あの
最後の一発を避けた夜笛は、すぐさま蓮夜のもとに降り立つとそのまま左手で蓮夜の首を掴んで一気に地面を蹴り、蓮夜の体を背後の大木に強く叩きつけた。
「……ぁっ!」
背中を強く打った衝撃で、肺から空気が押し出され、堪えきれなかった呻き声がのどの奥から漏れる。
「王手だよ、レン君」
ぎりぎりと首を絞める左手に力を込めていく夜笛がそう言いながら顔を近づける。呼吸ができないということは人間にとってはかなり辛い。自分の表情からも徐々に余裕が消えていくのが手に取るようにわかった。
だが、それもほんの一瞬。ここでニッと挑発するように口角をあげてやる。酸素が回らなくなったせいで潤んだ瞳が夜笛を射抜くように見据えた。
声が飛んだのはその時だった。
『夜笛、お前は動けない』
「⁉」
聞き覚えのある声が連夜の後方から湧き上がる。目を見開いた夜笛の目線の先で、深雪が大きな声でそう叫んでいた。同時に夜笛の体はそのままビクとも動かなくなる。
蓮夜を拘束した夜笛の目に、動揺が浮かんだ。
「……あれぇ? 深雪ちゃん……君一人でもそこまで強い言霊攻撃できちゃう?」
予想外だったなぁと強がる夜笛が言えば、深雪のそばに降りてきた火車のアケビがひと鳴きする。
「私の言霊の力は本来、せいぜい自分の存在を確立する陽の気を集めるために人の心を動かす程度の弱いものよ……それをあんたが無理やり増幅させたんじゃない。おかげでこうしてアケビに少し制御を手伝ってもらえば蓮夜に加勢できるってわけ。それに関しては感謝してあげる」
「……なるほど、墓穴掘ったかなぁ」
「そうね、大人しく降参しなさいよ」
強気にいう深雪の言葉を受けても、夜笛は頷かない。それどころか少し笑って言う。
「そっちこそ……術解かなくていいの? 見ての通り、オレの左手はレン君の首を強く締めたまま固まっちゃってるんだよ? これを解かないと……レン君も死ぬぜ?」
自らの左手を見ろと言わんばかりに語尾を強めて深雪に訴えかけるが、深雪は何も言おうとしないうえに、術を解く気配すらない。それどころか、余裕を持ったように笑っている。
「……何がおかしい」
思わずそう問いかけた時、左手で首を絞められたままの蓮夜が口を開いた。
「夜笛、何も分かってないな……」
「は?」
「僕は……好きで君にやられたい放題……されていたわけじゃない。全ては……君をここに誘いこんで……動けなくする、ためだよ」
苦しいながらにそう言った蓮夜が笑う。
「実のところ、僕も……理由あってあんまり動けなかったんだ。だから……避けられなかった、が正解なんだ」
「……なに、言って」
意味が分からない。
夜笛の表情が明確に揺れたのを蓮夜は見逃さない。次の瞬間、腹の底に力を込めるようにしてありったけの気を放出してやれば、目の前の夜笛の肌が泡立つ。その場から離れなければと脳内に警報が鳴っているのだろう。夜笛の体から大量の汗が吹き出すのが見えるが、術を食らった体を動かせるはずがない。
「……やれ、ロクロウ」
刹那――
ズン、という衝撃が走る。
蓮夜の胸辺りが光ったかと思えば、そこを貫通して日本刀が現れ、夜笛の心臓を深く一突きしたのだ。
「……っな、ん……」
刀は、ダメ押しをするようにさらに押し込まれる。
「か、は……っ」
夜笛の口から大量の血が吐き出されるのと同時に刃が抜かれれば、あんなに動けなかった体が動くようになり、自然とその場に膝を折って崩れ落ちた。
今しがたまで夜笛に首を絞められていた蓮夜もようやく気道を確保できて少しばかりせき込む。その胸を刀で貫かれたはずなのに、蓮夜からは不思議と血の一滴も出ていなかった。
木の後ろからロクロウが現れて、崩れ落ちた夜笛を見下ろす。この時になってようやく夜笛は全てを理解したようだったが、時は既に遅い。
「……なる、ほどね……腹の、虫か……それをレン君からロクロウに……渡していたのか」
ならオレの攻撃を避けられないのも、合点がいく。動けないわけだ。
夜笛が地面に伏したまま言うのを聞きつつ、腹の虫を己の腹に返させてから、蓮夜はすぐそばに来る。夜笛が六怪異に選ばれている以上、腹の虫で刺されて致命傷を負えばどうなってしまうかはわかる。
「……夜笛」
名前を呼んだ蓮夜の声が、震えた。夜笛が視線をあげれば、見つめる蓮夜の瞳は潤んでいる。
「……その瞳を、オレはずっと見ていくつもりだったのに……なぁ」
弱々しく言う夜笛は、それでも少し微笑んで続ける。地面に伏した体が徐々に薄くなりはじめる。
「最期にひとつだけ……本当のことを、教えてあげる。怪異に選ばれたやつには……同じように選ばれたやつがどこにいるか……それが誰なのか……わかる、んだ」
「……え?」
「オレはね、レン君……この先も……もっとこの世界を流れたかった。生きていたかったっていうのは本音だし……自分の命も大事だった。けど……それでもやっぱりレン君のことは……どうしても切り捨てられなかった。だから……できる限り長生きさせてあげたかったんだ……」
「何を……言ってるんだ……」
困惑する蓮夜をよそに、すべてを話さねばと言わんばかりに夜笛はそのまま続ける。
「最後の……六番目の怪異は……魂に、す、くって……」
「夜笛!」
言葉は最後まで音にならない。
溶けるように消えていく夜笛の手を思わず握り返そうとしたが、伸ばした先にもう彼の感覚は残っていなかった。