「………っ!」
奇妙な浮遊感に襲われ、蓮夜はハッと目を覚ました。一瞬自分がどこにいるかわからなくなるが、ゆっくり辺りを見渡して、そこが自分の部屋だとわかると深くため息が出る。
「目が覚めましたか」
傍らから声がしてそちらを見れば、サネミが部屋の隅に立っていた。
「サネミ……僕……」
「二日ほど眠っていました。体は大丈夫ですか?」
「二日……? そうだ! ロクロウは……⁉」
意識を失う前のことがふいに思い起こされ、蓮夜は再び辺りを見渡した。慌てる蓮夜のそばに来たサネミが、落ち着くように促してから短く告げる。
「ロクロウはもう大丈夫。きっと庭にいますよ」
まるで行って来いと言わんばかりのサネミに、蓮夜は一度頷いて部屋から駆け出した。
庭に向かって急いでいると、縁側にロクロウの姿を見つけた。息を切らして背後に立てば、ロクロウは無言で振り返った。その目が、隣に座れと言っているようだった。
何も言わずに隣に座れば、ロクロウは当たり前のようにそれを受け入れる。無言の空間なのに、不思議と居心地が悪くなかった。全てが、彼に通っている気がした。
「ロクロウ……もう、平気なの?」
「ああ、もうなんともねぇよ。霊力も何もかも安定してる」
落ち着いた声で返す彼の顔を見れば、それが嘘ではないと言うのがわかる。
「僕……ロクロウの記憶を見たよ。ロクロウは、元々は人間だったんだね」
「……ああ、そうみてぇだな」
前を向いたままロクロウは肯定する。どうやら彼自身も全てを思い出したらしい。
「僕は……何て言えばいいんだろう。なんとなくしっくり来た。ロクロウってば段々優しくなってきてたし、それに……たまに人間みたいな顔する時もあったからさ」
蓮夜の身に何か降りかかった時、一瞬見せたロクロウの表情を思いだす。今思えば、彼は自身の覚えていない所で、魂が記憶していた人間の時の心の痛みを感じていたのかもしれない。
「……何もかも持って、地獄に落ちてやるはずだったんだ。それがどうだ、何の因果か……憎んだはずの現世に、魂だけになっても残ってやがる」
自嘲するように言う。ひょっとすると、ロクロウは彼女の――椿が生前、怨代地蔵に願ったことまでは認知できていないのかもしれない。地蔵の記憶を見たのは自分だけなのか。
「椿さんが……願ったんだ」
ロクロウが、素直にその名前に反応する。
「ロクロウを地獄に落とさないでって……選ぶことが許されなかった彼にチャンスをあげてほしいって……。その願いを、ロクロウが死んだ時に……怨代地蔵が汲んだんだよ」
「椿の、願い……」
「うん。彼女は……きっと、不幸じゃなかった。それは多分、ロクロウがいたからだよ」
こんな言葉が慰めになるとは思っていない。それでもロクロウに知ってほしかった。彼女は不幸ではなかったと……ロクロウと出会えたことを不幸だなんて感じていなかったことを。
「……あいつも、馬鹿だな」
ため息を吐くように、少しだけ笑う。
「ちゃんと天国に行って、いつか生まれ変わったらそん時は……今度こそ幸せになってくれたら、それでいい」
空に浮かぶ月を見上げてロクロウはそう言った。どこかから優しい夜の匂いを含んだ風が吹いてきて、蓮夜の髪の毛を揺らす。実体化していないロクロウの髪の毛は揺れなかったが、その風をまるで感じているかのようにロクロウは暫く目を閉じていた。
沈黙の後、先に口を開いたのはロクロウだった。
「お前さんは寝てたから知らねぇだろが、昨日深雪のやつ、文字通り菓子折り持って謝罪に来たぞ」
「そうなの?」
「柄にもなく気にしてやがったから、気にすんなとは言っといた。あいつは付け込まれただけだ。生き返りたいってのは……生者のそばにいれば当然思うことだろうからな。それに、俺様がこうして記憶取り戻したのは深雪のおかげでもあるしな」
前向きな発言をするのは、深雪を悪者にしないための彼なりの配慮なのだろう。
「満春も一緒に来てたからついでに背中の痣を見たが、正直もう来るところまで来てるな。怪異は残り夜笛とあと一体だ。あの痣が閻魔の目を呼ぶ霊場の代わりになる目印なら、その時が近づいてくるにつれて満春の負担がでかくなるのも頷ける」
「前も言ってたけど、あの痣がある限り満春ちゃんの命は閻魔の目に使われるってこと?」
「いや、そういう表現をするだけであって真偽は不明だが、恐らくあの痣が完成したとき、満春の体諸共その一帯が霊場になるんだろうよ。下手すりゃ満春は閻魔の目の憑代にされる可能性があるってことだろ。命の保証がねぇってのはそういうことだ」
「…………」
「俺とお前さんがした契約とは違うからな。無理やり憑代にされたら満春は持たねぇぞ」
思えば、最初のころこそロクロウは憑代の契約をしろと詰め寄っては来たが、無理やり蓮夜を憑代にしてしまおうとはしなかった。それは彼に人の心があったからなのだろうか。
いずれにせよ、閻魔の目にロクロウのような心があるとは思えない。きっと条件さえ揃ってしまえば問答無用で満春を犠牲にこの世に顕現するだろう。
それだけは、どうしても避けなければ。
「一応聞いておきたいんだけど、今でもロクロウは閻魔の目の一部を食べたい?」
「はぁ? あー……最初こそ何のストレスもなく行動する糧になるなら食いたいとは言ったがな……結局はお前さんとこうしていい具合だし、その質問の答えはノーだな」
「はは、だよね」
「……おい、茶化すんなら殴る。それに実際、閻魔の目に関しては笑いごとじゃねぇぞ」
「わかってる……絶対、何とかしてみせる」
「……蓮夜、」
「何?」
ふいに名を呼ばれて顔をあげる。
「俺様が今ここにいるのは……サネミとお前の力に助けられたからだ。だから約束してやる。何があっても、俺は最後までお前さんに味方してやるよ」
だからそんなに気を張るな、と言うことらしい。
「……うん、ありがとう」
「それで、問題は夜笛の野郎だな。あいつをぶっ倒さない限り事は進まねぇ」
「そのことなんだけど、夜笛は多分、また近いうちに僕たちに接触してくると思うんだ」
「どうしてそう思う?」
蓮夜があまりにハッキリと明言したからか、ロクロウが少しだけ眉を潜めてそう問い返す。
蓮夜は頷くと、胡坐をかきなおしてから続ける。
「夜笛は他の怪異と違って自我があるし知恵もある。深雪さんを手中に収めようとしたのも、恐らく満春ちゃんが鍵を握っているってわかっていたからだ。封印されたくない夜笛は絶対また僕たちの前に現れて、僕たちが怪異を封印するのを阻止しようとする。だから、それを逆手に取る」
「偉くハッキリ物を言うが、お前さん何か作戦でもあんのか?」
ロクロウの問いかけに、「ある」と蓮夜は力強く肯定する。
「夜笛のおかげで、知らなかったこともだいぶ見えてきた。深雪さんの能力だってそうだ。気が付けば、僕の周りにはたくさんの力が集まっている……だからそれをパズルみたいに繋いで、夜笛を封印する」
「……お前さんの中ではもう脚本が出来上がってるみてぇだな」
ロクロウがスラックスのポケットに両手を突っ込んだままその場に立ち上がって、蓮夜を見下ろす。蓮夜はまだ何も明確に説明はしていないが、ロクロウはそれでも腑に落ちているらしい。特に反論することもせず、少し笑う。
「今更お前さんに異論なんか唱えねぇよ……なぁ、サネ?」
暗い部屋の奥を振り返りながらロクロウが言えば、そこにはいつの間にかサネミが立っていた。軍帽を被りなおしながら蓮夜達に近づいてくる。
「はい、もちろん。私も蓮夜とロクロウには助けてもらった身ゆえ、最後まで協力させてもらいますよ」
「サネミ……ありがとうね」
「いえ、こちらこそ。これは恩返しですから」
思えば、七獄の年の始まりの時に、蓮夜は一人だった。自身に課せられた使命を恐れ、どうすればいいかとただ怯えるだけの日々だった。
それが、気が付いてみればどうだろう。不安はいつの間にか息を潜め、心は一人ではなくなっていた。
感謝しなければいけないのは、きっと自分の方だ。
だから、この使命は――、
「んじゃまぁ、作戦会議と行くか」
「……うん!」
――絶対にやり遂げてみせる。
***
高校の校舎の屋上のフェンスに、夜笛は座っていた。
遠くで光る人口の光は明るく、その頭上に輝くはずの星の光までも打ち消してしまう。
あの光の中で人間は生活し、当たり前のように生を全うしようとする。
「嫌になっちまうよ、本当」
頬杖をついたまま、そう独り言ちる。
感情というのは、時としてとても邪魔なものだと思う。何かを考える心があることが、どれだけ面倒くさいことなのか。
「レン君は、オレの気持ちなんかわからないんだろうな」
夏越の血を引く青年を思い浮かべる。
日本各地を流れてみては辿り着き、会うたびに成長して大きくなっていった彼。その彼はもう、夜笛の思いを叶えてはくれない。
「情は、残酷だよ。全てを崩していく」
自らの命と他者の命を天秤にかけたとき、絶対に自分の方に傾くはずなのに。
夜笛の知る彼だけはそうとは限らない。
夜笛はそれを知っている。
だから、選ばざるを得なかった。
「……オレは、赴くままに生きるから」
フェンスの上に立ち上がって、星空を眺めるように上を向く。
草木も眠る丑三つ時が来る空に、たくさんの魑魅魍魎が漂い始める。
閻魔の目の気配に呼ばれたのか、はたまた地獄の穴が近づいているのか。
「騒がしい夜は嫌いじゃないけど……人の気も知らないでさ」
この世のものではない異形、彼らが集い騒ぐ夜を人々はいつからかこう呼んだ――
――霊々《れいれい》、
「知った以上、俺はもう、引き返せないよ」
……そして、夜は更ける。