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第四幕 魂の記憶

 深雪の発した言葉を受けたロクロウが、嘘のように膝を折ってその場に崩れ落ちる。まるで深雪に命令されたことに逆らえないかのように、何の抵抗もなく、だ。

「て、めぇ……深雪! 目ぇ覚ませ!」

 跪いた姿勢のまま深雪を睨みつけるが、深雪のそのうつろな瞳には何も映っていない。ただ、夜笛の言う通りに言葉を発するだけの人形と化してしまっている。

「無様だなぁ悪霊!」

 背後で夜笛がケタケタと至極楽しそうに笑う。

 至近距離で動けないロクロウはいつ何をされてもおかしくない。蓮夜が駆けだそうとするのを、「待って、蓮夜君! 危ないよ!」と満春が泣きそうな声で袖を引っ張った。

「でも……ロクロウが!」

 切羽詰まった蓮夜の横で、サネミが素早く猟銃を取り出して構えた。間髪入れず夜笛目掛けて数回発砲する。乾いた音が、暗くなった空に響き渡る。

 弾は全弾深雪のそばの夜笛に吸い込まれるように飛んだが、それを深雪が「弾はすべて外れる」と言ったことであらぬ方向へ流れて行ってしまった。

「これは……相当まずい状況ですな」

 銃を下げたサネミが苦々しく言って、帽子を目深に被りなおす。飛び道具ですら通用しないとなれば、遠距離攻撃はほぼ通用しない。かといって近づいて攻撃しようにも、先ほどのロクロウのようにされては攻撃のしようがない。

 どうすればいい、どうすれば夜笛から深雪を奪還できる。

 そう考えているところに、深雪の声が再び飛ぶ。

「……夏越蓮夜、逢坂満春、サネミ、火車。お前たちは――その場から動けない」

「!」

 言われた途端に、足がその場に固定されてしまったかのようにびくともしなくなる。くらってみて初めて分かる……言霊はある意味でかなり強力な『命令』の術だ。指図したことが絶対起こるとすれば、夜笛が深雪に唆している命令が実行された時……ロクロウがどうなるかは想像に難くない。

「夜笛、頼む! 深雪さんを解放してくれ! もうこんなことは止めるんだ!」

 必死で呼びかけるも、夜笛は無表情に視線を返すだけで何も言わない。それどころか、深雪に「さあ、はやく」と次の言葉を促した。

 深雪口が動く。酷くゆっくりと、まるでスローモーションのように感じた。


「――ロクロウ、お前は……消えろ」


 ドン、と波動のようなものが空気を震わせた。跪いたままのロクロウがうっと呻って前屈みになったのが遠目に見える。呼吸などという概念は幽霊に存在しないが、それでも相当の苦痛が押し寄せているのか、彼の体が息をするように上下に震えている。

「ロクロウ……っ!」

 名前を読んで、すぐさま傍に駆け寄ってやりたいのに、足がその場からびくともしない。このままでは本当にロクロウが消されてしまう。

「へぇ~……命令一発じゃさすがに消滅しない、か。さすが地蔵付きの悪霊だ」

 力が強い分、潔く消えられないと苦痛も激しいよな、と笑う夜笛を前にしてロクロウが何も言い返さないということは、相当余裕がないはずだ。それは夜笛も感じたようで深雪にもう一度さっさと命令するように唆す。

「ロクロウ……消えろ」

 再び波動のような気持ちの悪さが空気を震わせる。ロクロウの悲痛な呻き声が聞こえるのと同時に、今度は蓮夜自身の左胸も鋭く痛みだす。

「っぁ……ぐ……」

 ズキズキと差し込むように痛みだした患部をシャツごと握る。隣でサネミと満春が心配そうな声をあげたのが聞こえたが、構っていられない。脂汗が額に浮かぶのが自分でわかった。

 胸の痛む場所にはロクロウと契約した時に出来たしるしがある。ということは、これはロクロウの存在が脅かされているゆえの関連痛のようなものなのか。

 いずれにせよ、尋常じゃない痛みから察して、ロクロウは相当まずい状況だ。

「おい……深雪……」

 その時、それまで黙っていたロクロウが振り絞ったような声で深雪に話しかけ始めた。

「お前、自分がしてること、が……どういう事なのか……わかってんのか……っ」

 苦しそうに途切れ途切れ言うも、その声にはまだどこか芯が通っている。

「六怪異に選ばれた奴の……言いなりになりやがって……いいか、よく聞け……怪異を封印しねぇと……標的にされた満春は……助からねぇんだぞ!」

 その言葉に、それまで無表情だった深雪の表情がピクリとわずかに反応した。

「死んだ人間は……生き返ったりしねぇ! わかってんだろそんなこと! お前がやっていることは……全部満春の命を削ってんだ……それでもいいのか……っ‼」

 怒鳴るように言いながらロクロウが膝に力を入れてゆっくりと立ち上がる。ふらふらした足取りで深雪の元まで数歩前進し、肩に掴みかかった。

「いい加減、目ぇ……覚ませ!」

「あ……」

 深雪の瞳が揺らぐ。

「い、や……私、嫌……満春……!」

 駄々をこねる子供のように首を横に振りながら叫ぶと、その瞳から涙が溢れ出す。

「いや、満春は……死なせない、で……!」

 ロクロウに肩を掴まれたまま、両手で自分の頭を抱え葛藤するように深雪は藻掻く。膝から力が抜けてその場に崩れ落ちてもなお、深雪の動揺は収まらない。体を震わせて己の頭の中の何かと戦っている。下を向いた彼女の顔を、ロクロウが片手を顎に当てがって上を向かせる。

「蓮夜を信じろ! 信じて……あいつのところに戻って来い……」

 深雪の瞳を深く覗き込むようにして、ロクロウがそう言った。深雪の動揺により言霊の効果が薄れたのか、先ほどより声に力が戻っている。蓮夜の胸の痛みも軽くなった。

「あ……」

 プツン、と糸が切れたように深雪がそのまま仰け反るような姿勢で意識を失う。それをロクロウがすんでのところで腕を掴み、仰向けに倒れるのを阻止した。

 途端、蓮夜達の足も動けるようになる。言霊の力が薄れたせいか、すぐさまロクロウに駆け寄ろうとした時だった。


「まーだ、これで終わりじゃないんだなぁ」


 深雪の近くにいた夜笛がロクロウめがけて一匹の蛇を投げた。掌に乗るような小さなサイズの蛇だったが、それはロクロウに向かうや太く大きく変化し、素早く彼の体に巻き付いた。ロクロウに支えられていた深雪は地べたに倒れこむ。

「!」

 呻く間も与えられない。蛇はするするとロクロウの体を這うように締め付けると、そのまま顔の前で静止し、鋭く光る紅い瞳でロクロウの瞳を射抜いた。

「ぁ、ぐ……っ」

 ビクン、とロクロウの体が一度痙攣する。それを見届けると蛇はロクロウの体をあっという間に開放し逃げるように距離を取ろうとする。

「ロクロウ!」

 一体何をされたのかわからない。蓮夜が傍に駆け寄ると、ロクロウはその場に再び跪き、左手で顔半分を押さえて、大きく見開いた目で地を見つめていた。地べたについた右手は酷く震えているうえ、苦しそうに表情をゆがめている。異常が起きていることは明白だ。

「ロクロウ、しっかりして!」

 蓮夜は慌ててロクロウの背中に手を当てる。

 瞬間、何か映像のようなものが視界にフラッシュバックした。


 大きな日本屋敷に椿の花、表情の見えない女性、そして……怨代地蔵――。


「……な、に」

 ビリっと来る気持ちの悪い感覚に、思わずロクロウの背中から手を離せば、それとほぼ同時にロクロウが呻く。

「く、そ、が……っ!」

 苦し紛れに刀を抜いたかと思えば、一定の距離を取った蛇に向かって一気に切り込んだ。その斬撃は思ったよりも深く蛇の皮膚を割き、蛇はその場に砂の様に崩れ落ちた。

 だが、元凶の蛇が消えてもロクロウの苦しみは収まらなかった。刀を鞘に入れる力も残っておらず、その場に再び膝をつく。

「ロクロウ!」

 名前を呼んで、ぎょっとした。ロクロウの体が、消えそうに薄くなっている。

「なんで……⁉」

 言霊の力は消えたはず。現に使い手の深雪はそばで意識を失っている。ならばどうしてロクロウが消えそうになっているのか。

「何もわからないレン君に教えてあげる」頭上から声がした。

「さっきの蛇は夜蛇よみ。やつは目を見た相手の一番深い記憶を呼び起こす……そしてそこに心を落として閉じ込め、魂を食らう妖怪だったんだよ」

「……夜笛、お前!」

「悪霊にもひょっとしたら何かしら毒になるかなって試したんだけど、その様子じゃ……違う意味で効果があったようだね。面白いものが見れた。放っておいてもそのままだと、そいつは消える……っはは、願ったり叶ったりだ!」

 そこまで言うと、夜笛は大きく飛び上がって夜の闇の中へと笑いながら消えた。アケビが後を追うが追いつかない。

「待て、夜笛‼」

 蓮夜の叫び声だけが虚空に無残に響く。夜笛の存在をまるで消すように夜風が木々を騒めかせ、初めからそこには誰もいなかったように演出した。

 だが、夜笛が残した穢れはあまりにも深い。

「蓮夜、ロクロウの手を握って!」

 満春を連れていたこともあり、遅れてそばに来たサネミがそう叫ぶ。今なお蹲って苦しむロクロウのそばに跪くとその体をまじまじと見つめて、なぜかどこか切なそうな顔をした。

「……ロクロウ、やはり貴方は……」

「サネミ、何がどうなってるの⁉ ロクロウに何が……」

「そのまま手を繋いでいて、蓮夜。契約している貴方の精力で繋ぎ止めておかないと、彼は消えてしまう」

「深雪さんの術も夜蛇も、もう消えているのになんで……!」

 蓮夜の問いに、サネミは静かに首を横に振った。それから、ひどく静かな声で言う。

「落ち着いて聞いて下さい。ロクロウにかかった夜蛇の術は深層心理を蘇らせるようなもの……ロクロウは思い出しそうになっているんでしょう、恐らく……

「……え?」

 喉の奥が一気に渇くような、何とも言えない感覚が押し寄せる。何が一体どうなっている。ロクロウの生きていた時の記憶……ということは、彼は……

 蓮夜の脳内に、先刻ふと浮かんできた見たことのない情景が蘇る。あれがもしロクロウが生きていた時の記憶だとしたら……?

「だけどロクロウは……自分は怨代地蔵に人間が置いていった負の念から生まれた悪霊だって……! そう言ってた……それが、まさかそんなことって……」

「私たち幽霊界隈ではまれにあり得る話です。生前によほどの経験をした者が成仏できず、生きていた頃を忘れて彷徨う……彼にはどこか人間味を感じていました……ひょっとしたらと思っていたが……」

 ふいにロクロウの手に力が入り、蓮夜の手を握り返す。ハッとしてロクロウの方に視線を戻せば、それが最後の力だったのか、蹲った体勢すら保てなくなったロクロウが地面に倒れる瞬間だった。

「ロクロウ!」咄嗟に覆いかぶさるように背中にしがみつく。

「消えたらだめだ……!」

 思わず涙声になる。泣いている場合じゃないとわかっているのに、目から涙が落ちそうになる。

「蓮夜君……ごめんなさい、私たちのせいで……」

 深雪を介抱していた満春が蓮夜のそばに来て言う。ロクロウの手を握る蓮夜の手に自らの手を重ねて、まるで祈るように目を閉じる。彼女の手もまた、ひどく冷えて震えていた。

「お願い……ロクロウさん、消えないで……」

 懇願するように言う彼女の声をすぐ横で聞きながら、蓮夜はどうすればいいかだけをただ考えていた。

「なんにせよ、このままだとまずい……ロクロウ、一つ貸し、ですよ……」

 サネミはそういうと、帽子を脱いで自らの髪の毛を抜く。そしてそれにフッと息を吹きかけるような素振りをすれば、それが小さな光の玉に姿を変えた。

「蓮夜の精気を、私の霊力で援護します。どうか、これで……」

 倒れ込んだまま、姿が薄くなったロクロウの胸にそれを押し付ければ、光は体の中に吸収されて見えなくなる。同時にロクロウの虚ろな瞳を瞼が隠した。

「ロク、ロウ……」

 その表情を覆いかぶさったまま見れば、まるでそれは眠っている人間のようだと……。

 ああ、本当にロクロウは……人間だったのかもしれない。

 思えば、彼は悪霊のくせに少しずつ人間らしくなっていた。

 まれに蓮夜に向けられるようになった優しい雰囲気も、ひょっとしたら生きていた時の彼の名残なのだろうか……だが、人間だった頃を忘れたのは、なぜなのだろう。

 そう考えていると、ふいに強い眠気に襲われて、意識を保てなくなった。

 ロクロウに覆いかぶさったまま目を閉じる。


 ――暗闇の中で、蓮夜はロクロウの過去を見た。

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