あれこれしているうちに時間はあっという間に流れ、気が付けば十八時。
チケットに記載されている会場に足を踏み入れれば、そこには百人を優に超える人々が騒めき合っていた。屋外に臨時で設置されたステージは見事なもので、最初からそこがライブ専用の会場だったような気さえしてしまう。
「すごい集客率だなぁ! さすが人気軽音楽部……!」
あたりを見渡して感動の声をあげる蓮夜を見下ろして、ロクロウが気怠そうにため息を吐く。
「それよか蓮夜。人もそうだが……低級霊もすごいぞ。お前さん、人込み大丈夫なタイプの霊能力者だったのか?」
「いや、人が多いと必然的に憑りついている幽霊とかが多いから苦手だった。でもロクロウと契約してからは……何て言えばいいのか、少しマシになってるんだよね」
一応加護みたいなものなのかな、と言えば、ロクロウは素っ気なく「知らね」と一言。契約してお互いにそれなりにメリットがあることを考えれば、見える霊達からの影響を受けていないのは恐らくロクロウのおかげでもあるのだろうと見当はつく。それは本人もわかっているだろうに素直じゃない。
「あ、そろそろ始まるみたい……」
一緒についてきた満春が蓮夜の横で言った。それを合図にステージの方に目を向ける。こういったライブは来たことがなかったから雰囲気に押し負けて一番後ろの隅っこに陣取ってしまったが、音響はよく通るようで屋外なのに聴く分には問題ないとわかる。大音量に慣れてなくて耳が痛いくらいだ。
イントロが流れ出してすぐ、奥から現れた深雪がセンターマイクに立つ。それから数十秒の前奏を経て深雪が歌いだす。
普段の彼女の声とはまた違って幾分か低音が力強く、それでいて高音はビブラートが綺麗にかかりスッと伸びていく。どこか愁いを感じるような色っぽい声で歌う彼女の歌を聴いていると、彼女が学生であるという事実を忘れてしまいそうになる。大人っぽい、洗礼された歌い方だと思った。
ロクロウは蓮夜の少し後ろで、簡易テントの支柱に寄り掛かるようにして黙って曲を聴いていた。曲の変わり目に一度、「あいつコブシがうめぇな。演歌歌手の方が向いてんじゃねぇか?」なんて言うもんだから、それはビブラートのことだと思うと言えば、不機嫌そうに鼻を鳴らして静かになった。
数曲過ぎて、それまでの激しめの曲からバラードに移り変わり、伴奏がおとなしくなった分、深雪の声が以前よりもはっきり会場全体に響くようになった。バラードはバラードで間の取り方といい、ビブラートといい、聴いていて惚れ惚れする歌声だった。
その曲が後半に差し掛かった時、転調すると同時にステージの手前の方で蹲りそうになっている女性がいることに気が付く。少し気分が悪くなったのか、まるで吐き気を我慢しているように前かがみになっているように見える。
(あれ……あの人どうしたんだろう。体調悪いのかな……)
近寄ろうにも、人が多すぎて近寄れない。蓮夜の位置からわかるということはきっと近くの人が気付いてどうにかしてくれるだろうが、原因が気になってしまう。
「……おい、」
もんもんとする蓮夜の思考に、ロクロウの声が割って入った。それまで蓮夜の後方でサネミと一緒に大人しくしていたのに、ふらふらっと蓮夜の横に来て言う。
「なんか……あいつの歌、変だぞ」
「え?」
そういうロクロウは、苦虫を嚙み潰したようなどこか苦しそうな表情をしていた。様子がおかしい。思わずたじろいでしまう。
「変って……」
「ロクロウの言う通りです。これは……いけない……っ」
同じようにそばに来たサネミが、言いながらその場に膝をついた。
「サネミ!」思わずしゃがんでサネミの顔を覗き込む。
サネミも苦しそうに、眉間に皺を寄せていた。これはただ事ではない、そう蓮夜が息を呑んだ瞬間――
「キャー!」
会場中に響き渡るような悲鳴が聞こえたかと思いきや、次々と観客が倒れ始める。最初にうずくまっていた女性はもちろん、その周辺から人が次々に意識を失って倒れていく。
何が起こっているかわからない。だが異常事態なことには違いない。
運営は何をやっているのか、この緊急事態に何も対応がないどころか、ステージの上の深雪の歌声はまだ続いている。
……そう、深雪はひとり歌い続けていた。いつの間にかバンド仲間も倒れ、伴奏はとっくの昔に停止しているというのに、彼女はひとりで歌を続けている。
「お姉ちゃん……?」
蓮夜の横で満春が怯えたような目で、ステージの上の姉を見つめていた。口元に当てた手は震えていて、顔は真っ青になっている。
「みは、」
名前を呼ぶ前に、満春はその場にくたっと座り込んでしまう。肩で息をしている上に、呼吸をするのが苦しいのか、浅く弱い呼吸音が聞こえる。
「……満春ちゃん!」
満春の背をさするようにしていると、今度は蓮夜自身も少しばかり息苦しくなってきたのを感じた。喉の奥に何かが詰まったような、気管支が狭くなってしまったような気持ち悪さ。息をするのがうまくいかない。
(何が……どうなってる? 深雪さんは……?)
ステージでなおも歌う深雪の背後に、見覚えのある顔を見たのはその時だった。その人物は深雪の肩に手を置くと、「なかなかいい具合だね~」と笑う。その笑顔に、思わず心臓がズキンと脈打った。
「夜、笛……?」
それは紛れもなく、夏越家と昔から交流のある夜笛に他ならなかった。
夜笛はステージの上から飛び降りると、まっすぐに蓮夜の元へ歩いてくる。
「レン君はさすがに昏倒しないか~。霊の皆さまには結構効いてるみたいだけど」
「夜笛……何がどうなってる⁉ 深雪さんに何したんだ……っ」
「別に? ただ彼女と取引したんだよ。邪魔な奴を始末するのを手伝ってくれたら、生き返らせてあげる……ってね」
不敵に笑う夜笛を前にして、なぜ、どうして、という言葉は喉の奥に引っ込んでしまう。死んだ人間を生き返らせるなんてできやしない。そんなことは深雪だってわかっているはずだ。
その時、どこからともなく現れたアケビが一瞬のうちに大きな体になって、夜笛めがけて噛みつこうと口を開けて襲いかかった。
「おっと! 火車~……危ないなぁ。気を付けてくれないと」
『貴様……深雪にかけた暗示をとけ。今すぐに』アケビの炎のような毛が逆立つ。
「へぇ、火車も感情的になることって、あるんだ。でも残念、深雪ちゃんにはもう少し働いてもらうよ。元々彼女が持ってる言霊の力は……そこにいる悪霊を消すのにちょうどいいんだ」
言いながらロクロウを指さす。
「落ちこぼれのレン君だけなら、六怪異の封印なんか成し遂げられないだろうに、お前が協力したことでそれが可能になってるんだもんな……お前は邪魔だ」
普段の飄々として能天気そうな夜笛の雰囲気は消え、ロクロウを睨みつけるその眼光には憎しみすら感じる。
「……っハ、話には聞いていたが……お前が夏越の金魚の糞か。六怪異を封印されると、何か困ったことがあるみてぇだが……」
言った途端、実体化したロクロウが素早く刀を取り出し、居合切りの構えで夜笛まで一気に間を詰める。
「それはこれが理由だろ!」
迷いもなく抜刀し、夜笛に切りかかる。夜笛はそれを寸でのところで後ろに身を引いてかわしたが、衣服の胸部分だけが間に合わず切れてしまった。はらりと布が捲れ落ちる。そして、そこに見覚えのある印が浮かび上がっていた。
「眼の、模様……!」
信じられないものを見たような声色で蓮夜が言えば、夜笛はやれやれと言わんばかりに肩をすくめて笑う。
「さすが悪霊、鼻がいいんだな」
「ほざけ。六怪異を封印させたくない理由があるとすりゃ、そりゃお前自身が
そう言うロクロウは、まだ少し苦しそうに眉をひそめたままだ。
「ふーん……意外と頭も賢いんだ? ご名答、お前の言う通りだよ。オレは六怪異に選ばれてしまった。六怪異になったってことは災厄を回避しようとするお前らに封印されちまうってことだろ? オレはな……まだ消えたくないんだよ。己が封印されるくらいなら、災厄が降って世の中がなくなった方がマシだ! 他のやつらなんかどうなったっていい!」
「嘘だ! 夜笛はそんなこと言わないよ! お前は……いつだって僕に優しくしてくれたじゃないか!」
あれも嘘だったっていうのか。
そう叫んでも、夜笛の表情は変わらない。六怪異に選ばれていたということは、体操服を届けてくれた時には既に心の中で葛藤していたはずなのだ。己の存在か、世の平穏か……。それを蓮夜は見抜いてやることが出来なかった。もし気が付いていれば、こうなることは回避できたかもしれないのに。
その蓮夜の思考を、まるで読み取ったかのようにロクロウが言った。
「蓮夜、お前さんが何を言おうがこいつには響かねぇぞ。封印されるってことは、人間で言う死ぬのと同じだ。自分の生死がかかってんのに、耳を貸すやつはいねぇ」
だからお前が出来ることなんか何もなかったんだと――言い聞かせるように。
「さて……話も長くなったし、そろそろ予定通り悪霊には消えてもらおうかな」
夜笛は再びステージにいる深雪のそばまで飛び上がると、彼女の背後から耳元に向けてそっと言葉を投げる。
「深雪、歌はもういい。その代わり、今度はロクロウを消すんだ……あいつを消せば、お前は生き返れる……さぁ、やれ」
深雪がピクリと反応し、歌うことをやめる。途端、スッと息がしやすくなって、さっきまでの苦しさが嘘のように体が楽になった。それは蓮夜だけではなくサネミ達も同じだったようで、サネミがすぐさまその場に立ち上がって言った。
「蓮夜、下がって。相手が相手だ、危険すぎる」
満春のそばにしゃがんだままの蓮夜の前に、庇うようにしてサネミが立てば、それを見届けたロクロウが一気に夜笛に向かって地面を蹴った。鯉口に手がかけられている――ひょっとして深雪諸共夜笛を切るつもりなのかと脳裏によぎり、喉から声が沸き上がった。
「ロクロウ! 深雪さんは……傷つけるな‼」
悲鳴に近い叫びに、蓮夜のそばで深雪が震えた。人魂不殺がロクロウにかかっているとはいえ、深雪は厳密にいえば幽霊だ。ロクロウは手を出せる。
……だが、その心配は無意味に終わることになった。ロクロウが抜刀し、そのまま深雪の背後にいる夜笛を突き刺そうとした時、それまで黙っていた深雪が口を開いた。
「――ロクロウ、お前はその場に跪け」