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第一幕 猫と言霊

 毎日のように「行ってきます」と言い学校へ行って、夕方には「ただいま」と家に帰る。

 それが当たり前の日常。

 物心ついた時から逢坂深雪に父という存在はいなかったが、妹の満春と母、そして自身の三人の生活が世界の全てで、唯一安心できる場所だった。

 だがそれも、深雪が九才の時にあっけなく終わりを告げる。二人の子供を養おうと、女手一つで一生懸命に働いていた母が病死した。当時の深雪にとって医者の説明は難しく、だけどそれらが示す理由が「頑張りすぎたからだ」という事だけはなんとなく理解した。

 母は、自身と妹の満春を幸せにするために、命を削ったのだと。


 その後深雪と満春は、唯一繋がりのあった母方の祖父に引き取られた。祖父は体が弱いがその分心が優しく、自分の娘の残した孫である二人をとても大切に育ててくれた。

 だが深雪は大きくなるにつれて、心の奥にとある不安を募らせるようになる。確かに祖父は頼りになるし、妹の満春の事を任せられる唯一の存在だ。だが、祖父はかなりの高齢で、きっとあと数年もすれば自由が利かなくなる。そしてやがては……。

 考えたくはないが、人の命にはいずれ終わりが来る。母だってそうだった。

 そうなった時、残された自分達がまだ大人になっていなかったら……ひょっとすると施設に送られることになるかもしれない。

 それだけは嫌だった。たった一人の妹と離れ離れになることだけは避けたい。

 ならば、少しでも二人の手持ちに余裕があれば……ずっとは無理でも、せめて大人になるまでの少しの間は施設に行かずに二人で生きていけるかもしれない。

 そのためには、どうすればいいのだろう。

 中学生になった頃、深雪はそんなことばかり考えるようになっていた。


 そんな中学一年生の秋。

 ある夕方のことだ。

 真っ赤に燃える夕日を背に、伸びた影を見つめながら帰路を歩けば、次の曲がり角になにやら一匹の猫が蹲っている。驚かせないようにそっと近づき、その体を覗き込めば、どうやら左手に釘が刺さっているようだった。幸いにも先端が少し食い込んでいる程度で、出血はほぼ見られない。しかし、肉球のすぐそばだ。痛いことに変わりはないだろう。

「……猫ちゃん、大丈夫? ちょっと待ってね」

 話しかけると、なぜか猫が少しぎょっとしたように見えた。

 そっと猫の左手を掴む。夕日に照らされていて気がつかなかったが、猫の毛の色は不思議なことに赤茶色、いや、臙脂のような色をしていた。変わった色だと思いつつ、右手でそっと刺さった釘を抜いてやれば、小さな声で「ミャー」と一声鳴く。このままだと破傷風になってはいけないからと、持ち歩いていたアルコールで気休め程度に消毒をして、それから持っていたハンカチを破いて傷口に巻いてやった。

「これで多分大丈夫だと思う。でもしばらくは、あんまりたくさん散歩しちゃだめよ」

 傷口が閉じないからね。

 そう言って立ち上がると、猫がつられて深雪を見上げた。

 赤く染まった道路には、深雪と猫しかいない。

 遠くでカァカァと、カラスの鳴き声が聴こえて来た。

 もうすぐ、夜が来るという合図だ。

「じゃあね、猫ちゃん」

 ひらひらと手を振って、再び来た道を歩き出す。夜が来る前に家に付きたい理由は、きっと普通の人には理解できないだろうと心の隅で思いながら。

 目を地面に、長く前に伸びる影を睨みながら歩を進めれば、ふと何かの視線を感じて振り返る。

 先ほどの曲がり角に、もう猫の姿すらなかった。


「…………」

 あの傷で、もう遠くへ行ってしまったのか。

 人間とは違う。猫の生態なんかよく知らない。

 だがこの時、深雪は何か得体の知れないざわつきを覚えた。

 正面を向きなおして小走りにかけ出す。

 よく耳を澄ませてみれば、夜が近づくにつれて声がハッキリとしてきている事実に、心臓が跳ねだした。

 聴こえないはずの声が、する。

 それは深雪にとって、非日常ではない。

 逢坂深雪は――この世のモノではないが、見える。

 それが、日常だった。


 夜が近づくにつれて騒がしくなる道を、耳を塞ぐようにして走り抜ける。

 あと少しで家だ。家に入ってしまえさえすれば、祖父も満春もいる。弱い霊ならば人の生が濃い場所では必然的にその姿が溶ける。

 明かりが見えて来た、そう思った時、クンッと何かに髪の毛を引っ張られた。突然のことにそのまま後ろにたたらを踏んでひっくり返る。空を仰ぐように背を打ち付ければ、目の前に大きな顔をした女が立ってこちらを覗き込んでいた。顔には目玉が一つしかなく、耳まで避ける口にはギザギザとした鋭利な歯が並んでいる。

 カタカタと不気味な音をさせながら笑う女に、深雪は仰向けのまま動けなくなった。怖いという感情が全身を支配して、血がさっと引いていく。体の奥から冷え込んだかのように震えて歯が鳴りそうになる。

『カエテクダサイ』

「…………⁉」

『ソレト、カエテクダサイ』

 女の手が、深雪の顔に伸びて来る。掴まれたら最後、どうなるかは嫌でも想像がついた。

「いや……っ」

『カエテクダサイ』

『ソレト、カエテクダサイ』

『カ エ テ ク ダ サ イ』

「嫌ッ‼」

 思わず両腕で守るように顔を隠す。涙が溢れてきて零れ落ち、顔の横の髪の毛を濡らしていく。喉の奥がグッと熱くなって、気持ちが悪くなる。心臓の音が耳のすぐそばで聞こえた。

 女の声は腕のすぐ向こう側で聞こえ続ける。

 このままだと、遅かれ早かれ自分はどうにかされてしまう。

「…………っ」

 深雪は大きく息を吸った。乱れた呼吸が邪魔をして思ったように吸えなかったが、それでも言葉を紡ぐには十分だった。

「お願い、」

 腕をどけて、

「――消えて」

 女を見た――。


 瞬間。

 それまで聴こえていた笑い声が、静かになる。

 まるで、顔の大きな女は、目の前からいなくなっていた。

「………っは、ぁ、」

 体を起こすと、乱れた呼吸で息が詰まった。落ち着けと自らに言い聞かせて、少しばかりひりつく喉をゆるゆると擦る。

 逢坂深雪は、言葉を具現化させる「言霊」のようなものが使える。それは物心ついたときには深雪に備わっていた能力だった。発した言葉だけ、まるで魔法のように思い通りになる。

 それはさながら、この世のモノではない何かを見てしまう深雪に与えられた防衛のための術であり、自らの言葉に力があると知った深雪は、その力をこうして使うことで怪異から逃れ続けて来た。

 昔こそ意に反して能力を発動させてしまうこともあったが、中学ともなればそれはほとんどなくなっていた。人前でうっかり力を使って、怖がられるのが恐ろしい。

「…………」

 ゆっくりと立ち上がり、背中とスカートを可能な限り叩く。砂でざらついた鞄を肩に、髪を手櫛で整えてから、ぽつんと佇んだ一軒家に向かって歩き出す。

「ただいま」

 何事もなかったよう、普段通りを演じながら玄関に入れば、すぐさま「おかえり!」と満春がひょっこり顔を出した。まだ小学六年生の満春は中学生の深雪よりも、勿論のことながら帰宅が早い。ゆえに出来る範囲で家の事をやってくれる。この日も普段通り出迎えてくれたが、その腕にが抱かれていた。

 赤茶色、いや臙脂のようにも見えるその毛並み――。

「満春、その猫……どうしたの?」

 それは間違いなく、先刻深雪が手当してやった猫に違いなかった。しかし抱かれているその姿に、手当の跡は見受けられない。違う猫かと思ったが、こんな毛色の猫が他にいるだろうか。

「可愛いでしょ! さっきお買い物から帰ってきたら、お姉ちゃんの自転車の上に乗っかってたの! そのままついて家に入ってきちゃった」

 言いながら猫を撫でる。猫はゴロゴロと喉を鳴らした。

「入ってきちゃったって……おじいちゃんはなんて言ってるの?」

「うん、どこかの飼い猫じゃなさそうなら飼ってもいいよって」

 この家は一応祖父の家だ。深雪と満春はいわば居候の身。わがままを言う権利はないと思ったが、祖父が承諾したのなら話は別だ。

 だがこの猫、果たして招き入れて良いものなのか。

 頭の片隅で自然とそう浮かんだ自分にハッとすれば、目の前の猫が「ミャー」と小さく鳴いて深雪を見た。それからするりと満春の腕を抜けてひらりと床に着地する。そのまま深雪の足に寄ってくれば、すりすりと顔をこすりつけてまた一声鳴いた。

「お姉ちゃんの自転車に乗ってただけあって、お姉ちゃんの事好きみたい」

 ふふ、と嬉しそうに笑う満春に、どうしたものかと思う。ため息交じりに猫を見下ろせば、猫もまた宝石のように透き通った紫色に光る瞳で深雪を見上げていた。

 そしてその瞳に、不思議と恐ろしさは感じられない。

「……仕方ないなぁ」

 しゃがみこんで猫を抱き上げる。さりげなく左手を確認するも、先刻の傷はやはりもうどこにも存在していなかった。

「お姉ちゃん、名前つけようよ!」

 何がいいかなと満春が言う。うーんと唸って腕の中の瞳を見れば、また目を細めて「ミャー」と鳴いた。

「……瞳がアケビみたいな色してるから、アケビ」

「アケビ? いいね! 可愛い!」

 深雪に抱かれたままのアケビを満春が撫でれば、アケビもまた満足そうな顔でゴロゴロと喉を鳴らした。


 この猫アケビが、実は妖怪「火車かしゃ」であるという事実を知るのは、また暫く後の話である。

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