やめて、と泣きそうな声が聞こえたのはその時だった。反射的に振り返ると、屋上の柵を乗り越えるようにして黒い靄が満春の首を掴んで今にも落下させようとしていた。
「やめろっ!」
弾かれたように走り出すと、靄の中に赤い大きな目が浮き出て、それが蓮夜を見た。ニッと不気味に笑うと、次の瞬間には満春を掴んでいた手を離した――。
「――っ!」
声にならない悲鳴を喉に巣くわせたまま、蓮夜は咄嗟に柵から上半身を乗り出し、落ちゆく満春の右手をギリギリのところで掴んだ。心音が耳のすぐ横で聞こえる。息が整わなくて苦しい。掴んだ両手が汗で滑りそうになるが、絶対離すわけにはいかない。
黒い靄……箱之蟲は面白いものを見るように目で笑うと、今度は蓮夜の背中をロープの様に伸ばした靄で何度も殴りつけ始めた。打たれる振動で肺の空気が押し出されて苦しくなる。額には脂汗が浮き、掴んだ手が痙攣しそうになった。
「蓮夜、何してんだ! さっさとケリつけろ!」
ロクロウの声がして、鞭打っていた靄がバッサリ切り落とされた。同時に靄はロクロウを敵だと認識したのか、攻撃対象を変更し、ロクロウに向かっていく。彼はそれをいともたやすくかわすと、大きな目玉に向かって刀を突き刺した。
「ギャアァアアアアアアア」と耳を劈くような絶叫を箱之蟲があげ、刺された目玉から瘴気が噴き出して屋上に充満する。
「おい、さっさと封印しろ!」
ロクロウが叫ぶが、今はそれどころではない。目の前の満春をどうにかしなければ……このままでは落下して命を落としてしまう。
「だ、めだ……この子を……助けないと……!」
「放っておけ! 閻魔の目の降り場が死んだところでなんだってんだ!」
「うるさい‼」
何もかも、全てを振り払うように大きな声で叫んだ。はぁはぁと呼吸が乱れるのを懸命に抑えて、そして続ける。掴んだ先の満春と目が合った。綺麗な瞳が蓮夜を見ていた。
「僕は……七獄の年を何とかするために存在しているに過ぎない。ここでこの子を助けられなかったら……僕の命に価値なんか……ないっ!」
きっぱりと言い切った蓮夜の言葉に、ロクロウは顔を引き攣らせて口をつぐんだ。この人間の心の中には何か深い溝がある……震えながらなおも手を離さない蓮夜の背中を見て舌打ちをすると、ロクロウは地面を蹴って蓮夜のすぐ横に着地した。柵を乗り越えそうな体をロクロウが左手で乱暴に掴み、体を乗り出すようにして右手で満春の腕を掴んだ。
「……代わってやる! お前さんはあいつを封印しろ!」
言いながら蓮夜を引きはがして蹴り飛ばす。反動で後ろにひっくり返った蓮夜の上に、今だ目を刺されてのたうちまわる箱之蟲が圧し掛かろうとしてきた。避けようと起き上がろうにも酸欠なのか体に力が入らない。
何をしていると言わんばかりのロクロウの声が後ろで聞こえたが、もう遅い。潰されると思わず目をぎゅっと瞑った――その時、バン、バンと二度ほど銃声が聞こえたかと思うと、箱之蟲の体が少しばかり蓮夜の上から斜めにずれた。直後、炎を纏った大きな猫のような妖がどこからともなく現れて箱之蟲に体当たりをかましたかと思えば、鋭い牙で大きく嚙みつく。妖は、目を丸くして硬直している蓮夜に鋭い視線を向けると、はっきりとした人語でこう言った。
『何をしている。早く封印せよ』
「……!」
噛みつかれた箱之蟲は身動きできない。今しかないと蓮夜はそのままの体制で両手を会わせて詞を唱える。
「――
箱之蟲を真っすぐに見据えて、大きな声で叫ぶ。
「祓い給え、清め給え……
唱え終わるのと同時に、箱之蟲の体が崩れ始め、ギャアギャアと苦しむように暴れ狂う。だが、妖に噛まれたまま成すすべもなく、やがて跡形もなく溶けてなくなった。
「……っはぁ、はぁ」
屋上に吹いていた生ぬるい風がやんだかと思えば、太陽の光が射すように明るくなり、やがてグラウンドの方から生徒の声が聞こえ始めた。ああ、箱之蟲から解放された……そうわかると、疲れがどっと押し寄せていて気が遠のきそうになる。振り返ってロクロウの方を見れば、ちょうど満春を引き上げ終えたところだった。誰も死ななかったことに安心して、余計に脱力してしまう。だが、まだ重要なことが残っている。
「君は……何者? どうして助けてくれたの?」
目の前でこちらを伺っていた猫のような大きな妖に問う。炎を纏ったその姿は神々しく、つい見とれてしまいそうなほど美しい。箱之蟲の討伐を助けてくれたということは、味方なのではないだろうか。
『余は、頼まれたまで』脳幹に響くような声色で言う。誰に、と問いかける前に屋上の扉から聞き覚えのある声が飛んだ。
「私よ。私がアケビに頼んだの。箱之蟲の中に侵入するの、大変だったわ」
そこには、先刻出会った二年の逢坂深雪が腕組をして立っていた。一体どういうことなのかと蓮夜が問う前に、背後にいたロクロウが先に声を飛ばした。
「なるほどな、点と点が繋がったぜ。深雪とかいう女、てめぇその妖……
「あら、アケビのことをちゃんと火車だと認識できる程度には知恵があるのね」
「っは、抜かせ。そんなん気配でわかる。お前さんは火車の力で己の力を増幅させて存在を保ってるな? 一体何が目的だ」
売り言葉に買い言葉。ロクロウの質問に対して深雪は眉間に皺を寄せながらため息をつくと、火車――アケビと呼んだ妖に「おいで」と一言かけて手招きした。アケビは一度頷くと言われた通りに深雪の元に歩み寄り、普通の猫の姿になって肩に乗った。
「目的? そんなの決まってるじゃない」深雪がアケビの頭を撫でながら言う。
「妹を……そこにいる逢坂満春を、悪いものから守るためよ」
「妹……」
満春の方を蓮夜は思わず振り返る。ああ、そうだったのかと妙に納得した。綺麗な瞳は二人に共通している。深雪が特殊な以上、妹の満春にもその血筋があってもおかしくはない。
「背中、見たんでしょ……服破けてるし」
「あ、それは……」思わず言いよどむ。蓮夜のシャツの下の満春のシャツは避けてしまっていて、どこから見ても何かあったのは明白だ。
「力任せなんて最低だけど……見たなら話は早いわ。そもそも私が蓮夜に接触したのは、その背中の印を消す方法を、あんたが知ってるかもしれないと思ったからよ」
「僕が?」
「そう。自覚ないでしょうけど、妖界隈では結構有名なのよ、夏越の家。満春の背中の模様は、日に日に変化してる。今朝まで二個色が変わっていた……でも今さっきの怪異がそれなら……」
言いながら深雪は歩いて満春に近づき、背中側に回るとそっとシャツを少しだけ捲りあげた。一瞬、悲しそうに眉が下がったかと思えば、「やっぱり三個になってる」と小さく呟く。
「その言い方だと、お前さん七獄の年に関しては熟知してんな? 火車の入れ知恵か」
「……そうね、アケビが色々教えてくれたわ。今年が百五十年に一度……閻魔の目が蘇ってくる年なんですってね。そもそも満春が目を付けられたのは、そばに私が居る所為かもしれない……死者の私から霊障を受けていたから……他の人間より好条件に見えたのかもね」
自嘲気味に言う深雪に、それまで黙っていた満春が「そんなことないよ」と弱々しく微笑んで言えば、深雪もまたどこか辛そうに微笑みかえした。
「私たちはたった二人の姉妹。父と母が死んで、残った祖父はもう先が長くない……なのに私まで……。満春がひとりでも大丈夫だと確信できる時までは、私はこの世にいるつもりよ」
そう言った深雪の髪を、風がふっと揺らす。彼女は幽霊のはずなのに実体がある。自らエネルギーを収集して、火車の恩恵を受けて……そこまでしても妹のそばにいたいと願う彼女の姿はなんだかとても綺麗で、胸の奥がぎゅっとなる。蓮夜にも妹がいたが、遠い昔に母が連れて出て行ったきり会っていない。心配してくれる血縁者がそばにいるなんて、なんだかとても羨ましいなと思った。
「私は満春を死なせたくない。だから蓮夜……あんたに協力する」
「深雪さん……」
「まさか悪霊なんか飼ってるとは思わなかったけど。あんたの力は本物なんだから、もう少し自信持つことね。悪霊にいい様に使われないように」
「可愛くねぇな、お前」
面倒くさそうにロクロウが言う。
「可愛くなくて結構よ」
そう言いながら、そばにいる満春の手を引いて屋上の出入り口に向かって歩き出す。手を引かれる満春が一度振り返り、蓮夜と目が合った。不安そうに揺れる瞳の奥には、どことなく心配の色が見て取れる。恐らく満春は満春で、姉のことを心配しているに違いない。
「……いいなぁ」
そのつぶやきに、ロクロウが目を細めたのを蓮夜は知らない。単純に姉妹仲の良い深雪と満春が羨ましかった。もし自分が普通の人間だったならば、兄妹仲良く暮らす未来もあったのだろうかと頭の片隅で少しだけ考え、鼻の奥がツンとした。
そんな蓮夜を横目に、ロクロウは箱之蟲が果てた場所まで歩を進めると、コンクリートの床を凝視する。箱之蟲の跡こそ残ってはいないが、床にははっきりと弾痕のようなものが付いていた。無言でその弾痕を指でなぞる。微かに霊力のような、何か得体のしれない気配が感じ取れた。
「…………」
バン、バン――
あの時確かに二度聞こえたそれは、銃声だったと。
「おい、」
ロクロウは立ち上がると、屋上から学校の裏山を見遣る。
「……面倒くさいのはまだまだいるみてぇだぞ」
顔をこわばらせる蓮夜を見て、ロクロウは口の橋を釣り上げて、笑った。
「敵か味方か、わからねぇけどな」