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第三幕 蟲の中

 五限目の自習と六限目の現代国語の授業を終えて帰り支度を済ませると、蓮夜は借りた本を返すために図書室へ向かう。

 実はロクロウと出会った時には既に借りていてずっと鞄に入れたままになっていた。情けない話、最近色々ありすぎて存在を忘れていたのだ。ゆえにかなり返却日を超過しているので怒られるかと思ったが、司書は特に咎めてくることもなかった。念入りにすみませんと謝罪して、新しい小説を一冊借りておこうと棚を物色する。図書室には自分以外には司書しかおらず、至って静かだ。

 そういえばロクロウはどこに行ったのだろうか。五限目の授業の途中までは不可視状態のまま教室の後ろのロッカー付近であくびをしていたが、終わる頃にはいなくなっていた。

(まぁ、人間の授業なんか暇なだけだろうしな……)

 生徒ですら時として居眠りをするのが授業だ。悪霊がそれを聴いたところで面白くもなんともないだろう。そう考えつつ棚にある本に手を伸ばしてはページを捲るというのを繰り返す。

 今日はなんだかしっくりくる本に出会えない。

「んー……今日はやめておくかなぁ。それよりも怪異をどうにかしないとだし……」

 持っていた本を棚に戻して大きくため息を吐く。……と、一瞬目眩のようなものを感じて、目の前の棚に手をついて体を支えた。ぐるぐると世界が回るような感じに酔いそうになるが、じっとしているとそれは嘘のように収まった。

「……疲れてるのかな」

 そう独り言ちながらも棚から手を放し、図書室の出入り口へと歩を進める。途中受付カウンターの前を通ったが、さっきまでいたはずの司書はいつの間にかいなくなっていた。今の一瞬で一体どこに行ってしまったのだろうか……何か言いようのない気持ち悪さを感じつつ、出入り口の扉に手をかけて廊下に出た――

「……は?」

 ……はずが、目の前に広がったのは廊下ではなく、理科準備室だった。

「な、に……?」

 慌てて背後を振り返るが、そこに図書室の出入り口はない。最初から理科準備室を訪れたような自身の立ち位置に全身が泡立つ。

「……図書室を出たら廊下のはず……っ」

 意味が分からないという感情しか浮かんでこない。情報を処理できずに混乱した頭が痛み出す。辛うじてわかるのは、今が異常事態であるということだけだ。

 とりあえず外に出なければと扉を開けようとするが、まるで壁と同化してしまったかのようにびくともしない。

「……っなんで、開かないんだ」

 カーテンが閉め切ってある部屋の中は薄暗く、埃っぽい空気に交じって漂ってくる薬品の匂いが気持ち悪い。力任せに扉を開こうと懸命に力を込めていると、ふいに背後でキュッと蛇口をひねる音が聞こえた。反射的に振り返って目を凝らす。準備室の隅にある手洗い場の蛇口がひとりでに動いている。

「…………っ!」

 本能が警報を鳴らした瞬間、その蛇口から黒い液体が大量に溢れ出し、あろうことかそのまま蓮夜の方めがけて飛びかかってきた。まるで意思を持って動くアメーバのようなそれは細くロープのような形状に姿を変えると、蓮夜の手足に纏わりつき、しまいには首に絡みついて気道を塞いだ。

「……っぁ、ぐっ……」

 両手を頭上で拘束されてしまい、首に絡みついたそれを自力でどうにかすることが出来ない。目の前の怪異が六怪異のひとつであるかさえ、酸素の回らない頭では答えが導き出せない。耳元で「ウマソウ」という言葉が聞こえた気がした。同時に、先刻深雪に言われたことが思い出される……見える人間というのは、異形のモノからすると御馳走に見える、と。

 意識が朦朧としてきて、目の前が霞み始める。頭が垂れて下を見れば、黒いアメーバが自分の胸を貫こうとしているのが目に入った。だが、どうすることも出来ない。

 ああ、まずい。

 魂を取られるかもしれない……そう思った刹那――ガシャンっと派手な音を立てて、理科準備室の奥の窓が綺麗に砕け散った。そこから黒い人影が入ってきたと思いきや、次の瞬間には蓮夜を締め上げていたアメーバたちがバラバラに切り崩されて地面にボトボトと落ちる。

 気道が解放されると共に蓮夜も体が解放されて地面に崩れ落ち、激しく咽た。

「おいおい、勝手に俺様の憑代ものを食おうとしてんじゃねぇよ」

 聞きなれた声に視線を上げる。そこには涼しい顔をしたロクロウが立っていて、手には抜き身の刀が握られていた。どうやら侵入して対処したのはこの悪霊だったらしい。

「ロク、ロウ……」

 どこ行ってたんだよ、という抗議の言葉は息を整えるのに精一杯で声にならない。

「お前さん、何こんな三下に食われそうになってんだ……ちと目を離すとこれだ」

 やれやれと言わんばかりに頭をガシガシと書きながらロクロウは言うと、床に座り込んだままの蓮夜の腕を引っ張って起き上がらせる。

「どうやら、始まったみてぇだぞ」言いながら扉に手をかける。

 不思議なことにさっきまでびくともしなかった扉は嘘のようにすんなりと開いた。理科準備室の外は本来ならば三号館の二階のはずだが、出た先は二号館の一階だった。目の前に中庭があって、向こうに一号館の一階が見える。だが奇妙なことに人が全くいない。それどころか物音ひとつしない。まるで異次元に迷い込んだようで気持ちが悪い。

「何がどうなってんのこれ……今襲ってきたのは何なんだ……?」

「これは、箱之蟲はこのむしの仕業だ……なるほど、六怪異のひとつはコイツか。なら小学校も中学校の怪異も合点がいく。霊感のありそうなガキを狙ったな」

「どういう怪異なの? というか、皆どこに消えたんだ?」

「箱之蟲は狙った獲物だけ次元の裏に引きずりこんで閉じ込め、弱ったところで魂を食う妖だ。今俺様達がいる空間は現実の裏だ。現にさっきだってお前さんだけ取り込まれたのを、俺様が無理やりこいつの中に飛び込んでやったんだ。今元の世界じゃ普通にわんさか生徒がいるだろうぜ。それこそ……狙われてここに引きずり込まれてるやつ以外は、の話だがな。」

 妙に引っかかる言い方をするロクロウに蓮夜が問う。

「狙われてたのは僕だけじゃないの?」

 ロクロウはチラっと蓮夜を見下ろしたが、すぐに視線を前に戻して続ける。

「……恐らくお前さんは本命じゃねぇな。大方邪魔だからついでに食っちまおうとしてたんだろ。美味そうなことに変わりねぇからな……本命は他に居そうだぜ。例えばあそこの女とかな」

 言いながらロクロウが目の前を指さす。中庭を挟んだ向こう側……ちょうど保健室がある位置に女子生徒が一人不安そうに辺りを見渡しているのが見えた。

「た、大変だ! 保護しないと!」

 蓮夜は弾かれたように走りだそうとして、足を止める。箱之蟲の中にいるということはまた変な位置に移動させられてしまうかもしれない。それを考えると、このまま視線を外さず窓を開けて中庭を突っ切ったほうがたどり着く可能性が高い。蓮夜は窓を乗り越えて中庭に出て、一号館の一階の窓に走った。

「君! ここ開けて!」窓のところまできて、目の前にいる女子生徒に向かって叫ぶ。女子生徒はびっくりしたような、怯えたような表情をしたが、一拍おいてからゆっくりとした手つきで窓を開けてくれた。よじ登って中に入り開口一番に叫ぶ。

「君、何か変なものに襲われたりしてない⁉」

「ううん……保健室で横になってて目が覚めたら……明るいのに誰もいなくなってて……」

 制服のリボンの色からして蓮夜と同じ一年生だ。こげ茶の髪を後ろで緩くお団子にしている。

 蓮夜の切羽詰まった感じにただ事ではないと判断したのか、小さな声で「何が起きてるの?」と問いかけてきた。

「えっと……」なんと説明すればいいか言葉に詰まる。

 普通の人間に怪異の説明をしたところで信じてもらえるだろうか。そもそもなぜ彼女が巻き込まれたのか、そこが謎だ。彼女が本命だとすると、霊感でもあるというのか。

「……なるほどな、狙われた理由はそれか」すぐ後ろでロクロウの声がしてハッとする。

 ロクロウは窓枠にヤンキーのように座って二人を見下ろしつつ、ニヤッと笑った。

「その女……背中にとんでもねぇもんがあるはずだ。閻魔の目の気配がする」

「……は?」

「見たほうが早いな」

 言うや否やロクロウは窓から飛び降り廊下に着地すると、女子生徒の腕を引っ張って引き寄せ、力任せに制服のシャツを引き裂いた。夏服は薄く、シャツの下の肌着まで簡単に破けてしまう。ピンク色のブラジャーが露わになる。

「いや、やめてください!」

「ロクロウ! 何やってるんだ!」

 信じられない行動に蓮夜は咄嗟にロクロウの手を掴んで止めようとする。しかしいつの間にか実体化していたロクロウの腕力は相当のもので引きはがせない。

「馬鹿が、よく見ろ。これが答えだ」ロクロウの鋭い声が飛び、思わず視線が背中に――、

「なっ……」

 そこには、信じられないモノがあった。中央に大きな目のような模様があり、その目を囲むようにして炎のような模様が六つ円を描いている。うち二か所は色が変わっていた。

「この女、閻魔の目の標的にされてやがる」

「どういうこと?」

「……わかるように言ってやろうか。全ての怪異を封印したとき、閻魔の目はこの女の生命力を糧に蘇ってくるってことだ」

 そこまで言ってようやくロクロウは彼女から手を離した。蓮夜は慌てて自分の着ていた制服のシャツを脱いで彼女にかぶせる。下着の黒いシャツ一枚になってしまったが不思議と暑さも寒さも感じない今、そんなことは気にならなかった。

「どうしてこんな……閻魔の目って人間を降り場にするのか?」

「昔こそ霊場のような、霊気の濃い土地ってのはいくつもあった。閻魔の目も恐らくはそういう場所を標的に地上に蘇ってきたはずだ。だが……現代はどうだ? 科学が溢れ土地改良され、そういう神聖な場所ってのは無いに等しい。だからそれ相応の魂を持った人間の命を使った方が勝手がいいってことだ……この女は霊場の代わりにされたってことだな」

「霊場の代わりって……閻魔の目が復活したらこの子はどうなる?」

「……命の保証はねぇな」

 抑揚のないロクロウの声に、一気に血の気が引いた。それは彼女も同じだったようで、蓮夜がシャツを着せたままに触れていた彼女の肩が震えていた。無理もない、突然こんなことに巻き込まれて恐くないわけがない。なんと声をかければいいか蓮夜が思案していた丁度その時、廊下の奥から何か流れるような音が聞こえた気がして、ハッと視線を飛ばす。

「ほぉ、箱之蟲は本気みたいだぜ」

 ロクロウがどこか愉快そうにそう言った瞬間、ドンッと地響きのようなものがしたかと思えば、廊下の奥から大量の水が蓮夜達めがけて流れ出してきた。息を吸う間もなく、あっという間に廊下は水に満たされる。苦しい中目を凝らすと、自分が入ってきた窓が開いているにも関わらず水が逃げていかない。となると、この廊下を脱出するしか生き延びる術がないということになる。窓の外に出れば息が吸えるかもしれないが、それまでに息が持つかは賭けの域だ。蓮夜はよく見えない視界を閉じ、両手を顔の前で合わせると、心の中で詞を唱える。


(――振鈴しんれいよこしまから御霊を守り給え、悪しきものを退け給え……一線いっせん!)


 退けの詞と共に水の中でパンっと両手を鳴らす。音こそ出ないが、手を打った瞬間、まるで廊下の床に排水溝が出来たかのように水が吸い込まれ始め、やがて水面が顔より下になったかと思えば、最初から何もなかったかのように水は綺麗に消えてなくなった。息が吸えるようになった途端、体がものすごく怠くなって膝から崩れ落ちる。蓮夜の横で彼女も苦しそうに咳き込んでいた。生きていると確認してほっと胸をなでおろす。

「やるなぁ、蓮夜。俺様なしでもその女を助けたか」背後からロクロウの声がする。

「ロクロウ……お前、わざと助けなかったな?」その場に立ち上がって睨む。水の影響をロクロウが受けないのはわかっていた。なぜならば彼は悪霊で、呼吸をする必要なんかない。

「勘違いすんな。お前さんは助けるつもりだった。だが……そこの女は違ぇな。早い話、その女の魂をささげりゃ箱之蟲の核の部分が食いに出てくる。そこを叩く方が早いと踏んだまでだ。閻魔の目の降り場っつっても最悪肉体のみでも憑依できるから問題ねぇんだ。怪異どもも、この女の魂が食いたくて仕方ねぇんだろうぜ。しるし付きの女なんか美味いに決まってるからな」

 だからいっそ犠牲になってみる気はないかとロクロウは言いながら刀を抜いて彼女に向ける。そこには何の迷いも感じられず、彼が本心からそう提案しているのが蓮夜にはわかった。だからこそ、恐ろしい。人の命を何とも思わないその精神が――、

「……ロクロウお前、自分が何を言っているのかわかってるのか?」

「そっちこそわかってんのか、俺様は悪霊だぞ。目的のためなら人間の命なんかどうでもいい」

「…………っ」

 蓮夜は何も言わずロクロウのそばに寄ると、抜き身の刀を素手で掴み、自らの喉元に持ってきた。突然の蓮夜の行動にロクロウが珍しく驚いた顔をする。切っ先が蓮夜の喉の皮膚を薄く傷つけて血が滲みだす。掴んだ手からも血が出て震える。滴り落ちた血が、まるであの日の様に床に赤いシミを作る。

「……ロクロウよく聞くんだ。憑代の契約をしている以上、僕が死ねばお前にも少なからずデメリットがある。欲望をみたす上で不都合が生じるのはお前だって理解してるだろ」

「……何が言いたい蓮夜。俺様を脅してるつもりか」

「脅してるんじゃない、わかってほしい。ロクロウが今、僕が死んだら目的を達成する上で困るように、人には何か絶対その人の役目がある。この子にだってだ。だから……人の命を軽んじるようなことはしてはいけない。そんなこと……お前にはしてほしくないんだよ」

 涙声になった蓮夜の手元が余計に震えて、切っ先が更に喉の皮膚に刺さる。ロクロウの喉にもチクリとした痛みが走った。契約している以上、蓮夜の身に何かあればそれは連動してロクロウ自身にも跳ね返ってくる。思わず空いた方の手で喉を押さえて舌打ちをしたが、やがて観念したように大きくため息をついて刀を下げた。

「……ったく、これだから人間は。お前さんは特に甘ぇな……」

 わかったよ、とロクロウが刀を消して両手を上げる。それからふと彼女の方に視線を向けると、「おい、お前さん名前は?」と短く言った。

「あ、満春みはる……です」

「満春、な。こいつは蓮夜だ。せいぜい守ってもらいな」

「おい、ロクロウそんな投げやりな――」

 蓮夜のその一言は、最後まで声にならなかった。なぜならば、目の前に立っていた満春の背後に突如踊り場にある姿見が現れたかと思えば、中から白い手が伸びてきてあっという間に彼女を鏡の中に引きずり込んでしまったからだ。悲鳴をあげるまでもなく鏡面に沈んだ満春を逃すまいと蓮夜が鏡に手を伸ばすが、その向こうに手が届くことはなかった。鏡は役目を終えたと言わんばかりにひび割れ、その場に砕け散った。きらきらとした鏡の破片が廊下に散乱する。

 一瞬の出来事で息をするのも忘れそうになったまま、蓮夜がへなへなとその場に崩れ落ちる。鏡の破片が散乱していようがそんなの気にしない。

「何が、どうなったの……?」それしか言葉にならない。

 散乱した破片を震える手でつまみ上げてみる。それは本当にただの鏡の破片に見えた。

「……やれやれ、お前さんがさっき水流を解除したことで箱之蟲のやつ、ビビったな」

「……え?」

「舐めてかかってたんだよ、お前さんのこと。だがさっきの術見て考え直したってところか。要するに早急に女を殺して魂食って逃げようとしてんだよ、俺様達からな」

 言いながらロクロウは廊下に散乱している手の平大の破片を一つ拾い上げると、反対の手に刀を出し、そのまま勢いよく鏡面を突き刺した。そんなことをしたら余計に粉々になってしまうのではないかと蓮夜は思ったが、不思議なことに破片は割れることはなく、刀の切っ先を水面のごとく飲み込んでいた。まるでさっき満春が引きずられた時の様に……。

「相手の逃げ道をこじ開けるなんぞ俺様には容易い。この破片に触れてみな、一発で奴と満春のところに行けるぜ」

 早くしろとロクロウが急かす。心臓がどくどくと不安に脈打ったが、とるべき行動は一つだとわかっている以上、動かないわけにはいかない。

 蓮夜は恐る恐る鏡面に手を伸ばす。一瞬、目の前が真っ暗になり体が浮遊するような妙な感覚に支配された。思わず身をこわばらせるが、顔をあげると目の前はいつの間にか廊下の景色ではなく、学校の屋上に移り変わっていた。空は暗く、まるで夜のようだ。生暖かい風が吹いてきて蓮夜の髪を揺らした。


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