暗闇の中で、誰かが自分の名前を呼んでいる。それは徐々に大きくなるとやがて耳のすぐ横までやってきた。だが、あたりは暗く何も見えない。人がいる気配もしないのに、これだけがそこに在るかのように名前を呼ぶのだ。
『レンヤ……蓮夜……返事ヲして、レンヤ……』
時折機械の様に抑揚のなくなる声は、ずっと名前を呼び続ける。それがなんだか可哀想に感じてきて、蓮夜は返事をしようと口を――、
「おい、返事すんな。起きろ間抜け!」
「⁉」
鋭い声が飛んできて、ベッドの上で目が覚めた。と、同時にロクロウがどこからともなく覆いかぶさってきたかと思えば、刀で蓮夜の顔のすぐ左側に勢いよく刀を突き刺したではないか。
「え! な……ななななな何⁉」
驚いて飛び退くと、ロクロウの刀の先に小さい鬼のような怪異が突き刺さっていた。口だけが妙に大きく体の中央に眼の模様があり、色が黒いのに目だけが妙に赤くて不気味な風貌だ。
「何寝ぼけてやがる! さっさと封印しろ! こいつは二個目の怪異だ!」
ベッドの脇にいる蓮夜に叫びながら、ロクロウは刀で怪異を捕まえて離そうとしない。ギィギィと変な鳴き声を上げる怪異が時折「レンヤ……蓮夜……」と恨めしそうに名前を呼んでくる。なるほど、先ほどまで名を呼んでいたのはこいつだったらしい。
寝起きで頭が回らないが、封印しなければという本能だけが体と口を動かす。
「し……
口がうまく回らず、すんなりと詞が出てこない。ぼやけた頭をフル回転させ、声に出す。
「祓い給え、清め給え……
半ばやけっぱちの様に叫ぶ。刀の先に捉えられていた怪異がギャアギャアと苦しそうにより一層大きな鳴き声を出すが、やがてそれは砂の様に解け始め、最後には何も残らず消えてなくなった。
「び、びっくりした……寝てる時に襲ってくるなんて! 反則だよ!」
へなへなとベッドの脇に座り込む蓮夜に対し、ロクロウは「はぁ?」とどこか呆れたように答える。部屋の中は暗いはずなのに、ロクロウの姿だけはしっかり認知できる。
「なーに言ってんだ、日が落ちた後こそが怪異の行動時間だろうが。この家の結界が復活したとはいえ、俺様や六怪異の奴等には意味ねえっての忘れたのかよ?」
「いやそうだけどさ……本当びっくりしたよ。今のが二番目……?」
「ありゃ
誰かさんが間抜けな顔で寝たまま返事しそうだから肝が冷えたぜ、とロクロウは肩をすくめながらベッドの脇に腰掛けた。実体化しているのに土足で家に中に入ってきているのが気になるが、ここは指摘しない方がよさそうだと蓮夜はぐっと言葉を飲み込む。
「……なんにせよこれで二個封印したってことだよね。残りはえっと……四個?」
「閻魔の目まで入れるなら五個だけどな」
「はぁ……先は長いなぁ」
そう言ってため息をついた蓮夜を、ロクロウは呆れたような顔をして眺めていた。悪霊からすれば自分より格下の怪異なんかこれっぽっちも怖くないのだろうが、人間の蓮夜からすればそれが強かれ弱かれ、やはり恐ろしいことには変わりないのだ。
「弱音吐くなよ」ロクロウが立ち上がりつつ言う。
「まだ始まったばっかりだぜ」
***
二番目の怪異を封印し、そろそろ一学期も終わりを迎えるという頃、不審な情報が夏越家に持ち込まれた。なんでも叶叶市にある小学校と中学校において、放課後に生徒が突然行方不明になるという事件が発生した。二件とも共通しているのは「学校の敷地内で突然人が消える」という点で、誰かが連れ去った痕跡等は発見できていないという。防犯カメラにも不審者どころか行方不明になった生徒が学校から出た姿さえ残されていない。それはまるで忽然と人が消えたとしか思えない事件だった。
話を持ち込まれた祖母はすぐに小学校と中学校に調べを入れたようで、そこには微かに妖気のようなものが感じ取れたという。ただ、その本体どころかそれ以上のものは何も掴むことができなかった。
これは何かあるかもしれない。とりあえずもう少し調査する価値はあると蓮夜は睨んだ。
「さっきの話、どう思う?」玄関で靴を履きながらロクロウに問う。ロクロウは背後で珍しく神妙な声色で言った。
「どうも何も、このタイミングだと六怪異のひとつだろ。お前のばあさんが掴めないような相手が、そうゴロゴロいるとも思えねぇからな」
「ばあちゃんのことは買ってるんだ?」
「……お前さんよりかは、な」
蓮夜が立ちあがって玄関を出ようとするが、なぜかロクロウは動こうとしない。
「ロクロウ?」振り返ってみれば、ばちっと目が合った。
「今回の怪異、小学校から中学校に来てるなら、単純に考えて次は高校だろ。んで、この叶叶市に高校はお前さんの通ってるところしかない……となれば、あとはどうそいつを炙り出すかだな」
「何かいい方法でもあるの?」
「あほが、それを今から調べるんだろうが」
頭をガシガシと搔きながら、なぜかロクロウはもう一度家の中に引っ込もうと踵を返す。どこに行くんだと聞けば、面倒くさそうにこう言った。
「学校、先行ってろ。後から行く」
有無を言わさない圧のようなものを感じ、喉まで出かかった反論を飲み込んでから、蓮夜はそろりと玄関の戸を閉めて外に出た。
やがて、摺りガラスの向こう側に蓮夜の影が見えなくなったタイミングで、ロクロウは「おい、」と廊下の奥に向けて呼びかける。そこには祖母の久美子が立っていた。
「……何か俺様に言いたいことがあるんじゃねぇか?」
問いかけられた祖母は暫く黙っていたが、やがて落ち着いた声で告げた。
「あの子が非力なのは私のせいでもある。全てはあの子が命を落とすのが怖くて、前線に出させまいと力の使い方をろくに教えなかったからさね」
「……だろうな。あいつは妙だ。力が体の中にあるのにそれを外に出さない。だが出さないんじゃない、出し方を教わってないだけだ。足りないのは経験だ」
廊下の壁にもたれながらロクロウが言う。現に蓮夜はロクロウに人を殺せない呪術を施している。こんなの、並大抵の血ではまずできない芸当だ。
「夏越の血は、代々男が薄命でね。あの子も生まれつき心臓がなぜか強くない。だからなるべく普通に生かしてやりたかったんだ……それがまさか悪霊と契約するなんて」
どこか悔しそうに祖母は言う。「私が力及ばないばかりに」と。
「……心配すんなよ。あいつに何かあれば俺様にも影響あるんだ。お孫様は懇切丁寧に扱ってやるよ」
ククッと喉の奥から笑う。その顔がどこか悪だくみをするように歪む。
夏場だというのに薄暗い廊下にはどことなくひんやりとした空気が流れた。セミの鳴き声がとても遠くに聞こえる。
「ロクロウ……といったかね。この家の結界を諸ともしないお前は相当な悪霊だろうさ。だけど……万一蓮夜に何かあった時は……覚悟してもらいますからね」
ロクロウの目を、祖母の黒い瞳が射抜く。
「おーおー……怖いねぇ」
悪霊はただ面白そうに笑うだけだった。