大きなお堂の中で、祖母は三人の坊主と向き合って座る。暗い室内に電気はついておらず、代わりに蠟燭が部屋の四隅に置かれていた。伸びた影が炎に合わせて揺れる。
「百五十年に一度の
「六つの怪異が現れ、それを封印したのちに七つ目の怪異として
「閻魔の目を地獄に還さなければ……この
もう七獄の年は始まっていて、怪異はすぐそこまで迫っている。
三人の坊主は静かな口調で、しかしどこか捲し立てるように祖母に言った。
「……夏越家である以上、私たちがやらなければならない。それは百も承知している。しかし蓮夜は……出来ることなら前線には出したくないの」
あの子はまだ、高校生なのよ。
そう続けると、坊主達もそれはわかっているというように口をつぐんだ。
「だけど……そうも言っていられないわね」
「久美子殿……」
「……やるしかない。百五十年前も私たちの先祖は乗り越えたわ。閻魔の目を地獄へ還し、七獄の年を越えなければ……」
***
ふと目を開けると、目の前には怨代地蔵があって、蓮夜はその前に立っている。しかし辺りは真っ暗で、地蔵以外何も見当たらない。現実ではないのか、と蓮夜が思ったのと同時に声が飛んできた。
「死ななくてよかったな」
ハッとして振り返ると、蓮夜の背後に見慣れた男が立っていた。白いシャツ、黒いスーツに黒いネクタイ。黒髪で鋭い目つきの男は、相変わらず不敵な笑みを浮かべている。
「お前が……助けたのか……?」
意識を失う前、自分で救急車を呼ぼうとした事は思い出せる。だが電話で誰かと会話した記憶がないということは、恐らく自分はあの瞬間意識を失ったのだろう。真っ暗闇の高架下で意識不明になっている高校生が誰かに見つけられるなんざ奇跡に近い。となると、考えられるのは目の前の男が自分を助けた……ということだ。
「俺様に、少しは感謝したか?」
予想はどうやら当たっていたらしい。
意識を失う前不殺の術をかけたから、男が自分に手出しできないのはわかっている。警戒する必要なんか今更ないが、殺そうとした人間を助けた理由がわからない。妙なざわつきだけが胸の中でうずく。
「なんで助けた? お前にかけた術は自らの手で人を殺せないだけであって、目の前に現れた魂は食えるはずだ。僕があの時あのまま死ねば、肉体から魂が出てきて……それはお前の好きに出来たはずだろ」
「細かいこと気にするガキだなぁ」
やれやれと肩をすくめながら男は蓮夜の横を通り過ぎ、怨代地蔵に腰を掛けた。罰当たりだなと思ったが、彼はそこから生まれたと言っていたから問題はないのだろう。
「理由も糞も何も、お前さんが俺様にその術をかけたせいだぞ。俺様は地蔵に来た人間の負の念から生まれた悪霊で、起点はこの地蔵さんだ。自由に行動できる浮遊霊とかとは違って、こいつから離れるのには霊気……まぁエネルギーみたいなもんが必要になってくるわけだ。それをああして人間様から頂戴してたんだ。それがだ、お前さんが手出しできない術かけてくれたもんだからよぉ、霊気集めるのに困るわけだ」
「……地蔵のそばにずっといればいいじゃないか」
「冗談。人間だって同じ場所に居座るのはつまらないし、飯食わないのは無理だろ? それと同じだ。俺様が存在するためにも霊気は必要なんだよ。で、ここからが本題なわけだが、」
右手を顎にもっていって、男はニヤッと笑う。
「お前さん、俺様の
「断る。そんなの結んだところで僕に何の得もない」
「いーや、そうでもねぇぜ。お前さん……霊能力者の血筋でも夏越の孫だろ。夏越っていえばこの叶叶市で一番力が強い霊能力者じゃねぇか。ゆえに何かあれば一番にお前の家にお鉢が回るだろ」
「……なんで僕が夏越の血筋だって知ってる?」
「お前さんの病室に夏越って名前があった。夏越蓮夜っていうんだろ? それに見舞いに来たばあさん、あれがお前の祖母だな? 離れた場所で見ただけだが、老いぼれにしては人とは違う強い気配を纏ってやがった。一発で合点がいったぜ」
地蔵に腰掛けたまま、男は蓮夜を品定めするかのように目を細める。じろじろと見られるのは好きではない。さっき男は病室と言っていたが、自分は今入院しているということなのだろうか。とすれば、これは夢の中なのか。
「正直、憑代になってくれるなら誰であろうと贅沢は言えねぇと、目の前で死にかけていたお前さんを選んで生かしてみたわけだが……蓋を開けてみりゃ大当たりだ。俺様は運がいい」
「お前……どうしてそんなに憑代を欲する? 普通に悪霊としてほそぼそと存在を確保するレベルなら、人間の霊気じゃなくてもいいはずだ。自由に行動したいのは……何か目的があるんじゃないのか?」
霊気というのは何も人間からでなくても得られる。確かに量的には減るだろうが、それでも普通に存在するには困らないはずだ。しかしこの悪霊はやたらと自由を求めている。これはきっと何かあると蓮夜は思い、悪霊の出方をうかがうように問いかけた。
「なるほど、お前さんただのバカじゃねぇな」
「はぐらかすなよ」
「まぁいい。単刀直入に言っちまえば、俺様は
「閻魔の目……?」
聞き覚えのない単語だった。だが、なぜかその響きは蓮夜の胸をざわざわと騒がせる。自分に全く無関係の言葉ではないということは直感でわかった。
「今年は百五十年に一度の
閻魔の目とは違って、七獄の年という言葉には聞き覚えがある。それは、自分が十六歳の年にやってくると教えられていた災厄のことだ。怪異が暴れ、手を打たなければ人間社会に災いが襲い掛かる。それを止めるに命がけで夏越の家は立ち向かわなければならない。
『夏越の血を継ぐ蓮夜は十六歳より、大きくなれないかもしれない』
祖母の言葉がフラッシュバックする。
何か起きる年だということはわかっていた。だが、何が起きるのかということは知らされていなかった。
その閉ざされていた箱の中身を、今初めて覗いた気がした。
「聞くところによると閻魔の目ってのは地獄に落ちた妖の塊のようなもんで、たまりにたまった災厄が具現化したようなもんらしい。なに、全部食うとは言わねぇ。俺様だってそんな厄介なもんは全部食えねぇからな。ほんの一部食って糧にしてぇんだ。俺様が食えば閻魔の目の力は弱くなるぜ? あとは人間様が煮るなり焼くなり好きにすりゃいい」
「……ようするに僕の家系がいずれ叩くことになる相手を弱らせてやるから、あんたに協力しろってことだろ」
「その通り。俺たち悪霊は霊や妖相手に戦うことは出来ても封印は出来ねぇ。閻魔の目は先に出てくる六つの怪異を退治し、封印しないと現れねぇ。だが、封印できるのは能力のある人間だけだ。お前さんが仮に夏越の家の人間でなかったとしても、俺は同じようにお前にこの契約を持ち掛けたさ。霊能力がありゃ、やりようはあるからな」
まぁ、さっきも言ったが当たりくじだったからもう関係ねぇけどとククッと笑う。
そんな男の陽気さを目の当たりにしても、蓮夜の胸の内のざわざわは収まらない。もしもこの男の言うことが全て本当ならば、まもなく夏越家は大変な役目を担うことになる。そしてそれは祖母だけではなく、蓮夜自身にも大いに関係があることだ。
自分がここで選択を間違えれば、大変なことになるかもしれない。
無意識に握った掌がじっとりと汗で濡れる。
「閻魔の目を出現させるのに必要な六つの怪異の封印を、僕に率先してやらせようってことか」
「早い話、そういうことになるな」
「僕が落ちこぼれなのをわかって言ってるのか? 僕にはたいそうなことは出来ないといったはずだ……残念だけど、僕は夏越であるけど有能じゃないんだ」
酷く口が渇いて言葉がつむぎにくい。自分自身を否定することには慣れているはずなのに、体の奥が痛いのはなぜだろう。
「よく言うぜ、俺様の腹に
「…………」
「お前さんの使命の手助けをしてやるって言ってんだ。なぁに血統はあるんだ、お前さんに足りねぇのは力じゃねぇ、経験だ」
男は地蔵に落ち着かせていた腰を浮かせると、つかつかと蓮夜の目の前まで歩みよって来た。
「俺様の名前はロクロウ。地蔵に降ってきた人間の負の念から生まれた悪霊だ。そんじょそこらの霊や妖より格上だからな。役に立つと思うぜ」
そう言って男――ロクロウは自らの右手を伸ばし、蓮夜の頭に一度触れた。反射的に蓮夜はその手を払いのける。瞬間、ロクロウの光る瞳と視線が交錯した。ごくりと喉が鳴る。
振り払われた右手をロクロウは一度眺めると、肩をすくめてやれやれと言った風にため息をついた。
「交渉に乗らねぇと? まぁいい……そろそろ目ぇ覚ましてみな。絶対に俺様と契約したほうがいいって、すぐにわかるぜ。もう七獄の年は始まってんだ」
ロクロウの声が徐々に遠くなる。それに伴ってロクロウの姿が地蔵もろとも闇の中に沈んでいく。蓮夜の足元の感覚も酷く曖昧になって、自分が立っているのかどうかもわからなくなった。
まずい、暗闇に落ちる。
そう思った瞬間、突然体が浮遊するような感覚に襲われて、視界が一気に明るくなった。
目を開けるとそこは病院の一室で、自分は真っ白な空間でベッドに寝かされていた。