「こんばんはいらっしゃい!お姉ちゃん一人?」
「はい」
「あっちの四人席空いてるから座わんな!」
「ありがとうございます。あ、それから生一つ」
「あいよ、生ね。了解」
あのまま家にいても陰鬱な感情に殺されそうだと思い、近頃ずーっと私の頭と心に棲みついていやがる奴の存在を刹那的でも良いから忘れたくて、気づけば私は逃げる様に行きつけの居酒屋に入店していた。
しっかり手の込んでいる美味しいお通しとキンキンに冷えた生ビール。こんな時でもやはり最高な組み合わせである。
ゴクゴクと暑さを振り払うかの如くビールを流し込んで、出汁巻き卵と唐揚げとポテサラを注文した。どうせ後から絶対にパスタかご飯系のおつまみを頼むと分かっていても、「とりあえず」という便利な言葉で一旦注文にピリオドを打つ辺り、大人になっても私は全く学ばない人間である。
「はい、ポテサラと出汁巻き卵ね。唐揚げは今揚げてるから待ってね」
「わ~美味しそう」
「今日は人も少ないしゆっくりしていってね。いつもありがとう」
「ありがとうございます、いただきます」
テーブルにおつまみを運んで持っていたお盆を脇に抱えた店主の奥様は、実家に帰って来たんかと錯覚する程に柔らかい雰囲気と言葉を提供してくれる。何度このご夫妻に私は社畜のストレスを癒して貰ったか分からない。
しかもおつまみの味全てが美味しい。つまりは天国。
手を合わせて割り箸を割り、早速ポテサラを取って口に含んだまさにその瞬間だった。
「あれ、菅田?」
まさかの名前を呼ばれて反射的に視界を切り替えた先に、「やっぱ菅田だ」そう言って破顔したスーツ姿の山田がいた。
「相席しても良いか?」と丁寧に訊いてくるのが山田らしい。「勿論」実に短く返事して首を小さく縦に振って、一杯目のビールを飲み干した。
山田の登場に、アルバイト生と思しき女性の空気がガラリと変わる。さっきまでの気怠そうな態度は何処へやら。満面の笑みを携えて、山田におしぼりを差し出している。
「とりあえず生お願いします。…と、菅田は二杯目どうする?」
「ん、同じので」
「それじゃあ生二つお願いします」
そんでもって、山田遊雅という名の鈍感な男は、自分に向けられている好意にこれっぽっちも気づいていない。ていうかこの男、学生時代からずーっとこんな調子だよな。何も変わってない。
兎に角良い奴で、欠点なんて見当たらなくて、面倒見も良いし周りからの信頼も厚いし、社会人になっても仕事ができるから上司からも好かれまくっている。しかも容姿が抜群に整っている。
そんな完璧人間なのに、山田が好きな相手が菅田永琉というゲーマーで怠惰な人間だという事実が非常に解明不能なミステリー。
でも、案外そういう物なのかもしれないと思うのは、私が平野に恋をしていると自覚してしまったからだろう。
二人分のお酒が届き、それぞれが手にしたジョッキが軽くぶつかる音がテーブルに溶ける。
「スーツ着てるけど、今日仕事だったの?」
「ん、この時期は割と忙しいから毎年こんな感じ」
「広報部も大変だな」
「sucréこそ、夏はいつもより忙しいだろ。大丈夫なのか?」
「ちゃんと死にかけたけど、やっとゴールは見えて来たって感じ」
「髙橋編集長が期待しててって豪語してたぞ」
「そんな暇あったら仕事しろ案件で草。それにしても、今回は平野が体調崩したから割と本気でヒヤヒヤしたかも。…平野が無事に復活してくれて助かった」
「………」
「山田?」
表情が強張っている相手の顔を覗くように首を傾げる。刹那、綺麗な色をした双眸と視線が絡まった。
軽くネクタイを緩め、お酒を勢いよく煽った山田が、くしゃりとセットされた前髪を搔き乱して苦笑を零す。珍しく既にほんのり頬が紅く染まっていた。
「ごめん、菅田が可愛い顔して平野の話することに腹立ってしまう心の狭い自分を殺したくなってた」
ep.48 End