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ep.45私の心を揺さぶる男①



 恋心程に面倒で厄介な存在はないな。


 以前まではその辺でくたばってろバーカなんて思っていた平野に対して、不可抗力で口許が緩んでしまう。


 てか、どう見ても休憩なんて取れるタスクの量じゃなかったのに今日中に終わらさないといけないタスクの目途がもう立ったのだろうか。



「あんた、こんな場所で油売ってる暇あんの?」

「ぇえ!?まだ働けって言うんですか!?世は令和なのに労働環境がまるで戦時中じゃーん」

「いやでも今日中のタスク、かなりあったでしょ」

「それならどうにかゴールが見えたので心配無用です」

「……相変わらず腹立たしい男め」

「何で!?惚れ直すところじゃないですか!?何で俺愛しの永琉先輩に睨まれちゃってるの…ぴえん」



 何処にそんな元気があるのか、シクシクとわざとらしく泣き真似をする相手に素直に白い目を向ける。


 お前全然病み上がりの顔付きしてっぞ。本当に大丈夫なのかよ。


 それにしても、この男の要領の良さは尊敬せざるを得ない。平野を好きだと認める以前の平野嫌いの私は、そんな平野が恨めしくて憎たらしかった。


 だけどそれは多分、認めたくないのだけれど、ただの嫉妬心だったのだろう。



 病み上がりにも関わらず大量のタスクで疲労困憊なのか、朝はしっかりセットされていた髪が乱れている。


 嗚呼、こいつはこいつなりに努力して、この男はこの男なりに神経を摩耗しているんだな。今ならそう思うことができるし、相手の苦労もちゃんとこの目に見える。



「平野」



 相手の視線が持ち上がって、美しい双眸に自分の顔がぼんやりと映る。平野の瞳の中にいる自分は、呆れてしまうまでに頬に力が入っていない。


 その上、ここ連日の疲労で私は頭でも沸いていたのだろう。無意識のうちに柔らかそうなピョンと跳ねているアッシュの髪の毛へ手を伸ばして、撫で付ける様に触れてしまっていた。



「…え」

「え」



 みるみるうちに大きく見開かれる相手の目と拍子抜けしたかの如くポツンと漏らされた声によって我に返った。そして間抜けな声が自らの口から零れていた。


 嗚呼、どうしよう。親からも感情に乏しい女だと謳われたこの菅田 永琉が柄にもなくパニクっている。動揺がまるで隠せない。今、一体、己はどんな表情をしているのだろうか。


 どこでもドアを出してくれドラえもん、そしたら真っ先にここから一番遠い場所に逃亡するよ。



「べ、弁当……その、美味しかった。病み上がりなのに作ってくれて…ありがとう」



 三十路も視野に入り始めた年齢だってのに、咄嗟に吐き出した言葉は頑張って絞り出したのが見事に露呈する位に弱弱しい。


 そこそこ人生重ねてきたつもりでいたけれど、動揺はこれっぽっちも隠せていなかった。


 また発熱してたりしたらどうしようかと懸念があったが、私の指先から感じる平野の体温が平常で安堵の息を静かに落とす。しかしながら気のせいか?何だかどんどん温度が高くなっている様な…。


 そう感じて眉間に皺を寄せたのも束の間、目前にいる男の美しい顔があっという間に紅潮した。



「え、ちょっ…マジタイム。一旦ストップ。何これ、何この状況、俺異世界に転生しちゃった?永琉先輩から溺愛されちゃうハッピーエンドルートに辿りついた感じ?」

「あ?何言ってんの」

「あ、普通の永琉先輩だ。一瞬で氷点下の冷たさに戻ってて悲しいけど安心しちゃう」

「…っ煩いな、私そろそろ休憩上がりだからそろそろ行…「待って」」



 はっきりと申し上げると、その場からさっさと立ち去りたい一心だった。


 一度伸ばした手の仕舞い方すら分からなくなり、そそくさと立ち上がってこの場を後にしようと鈍くなっている思考でどうにか作戦を練ったにも関わらず、平野の手が私の手首を捕らえたことにより呆気なく作戦が散った。



 握られている手首が、相手の体温が、酷く熱い。さっきまで舌の上で幸福を提供してくれていたザッハトルテみたいに、今にも自分の心が蕩けてしまいそうな妙な感覚に襲われる。



「逃げるのはルール違反です」

「何のルール違反になんの」

「勿論俺のですけど?」

「最高のキメ顔すんな」

「ねぇ、先輩。永琉せんぱい」

「な、なに」



 甘い甘い声色に変わった相手の口から、自分の名前を呼ばれるだけで鼓動が脈を打つ。ドキドキ、ドキドキと心拍数が上昇していく。


 呼吸するのも憚られる。それ位、変な緊張感が走っていた。


 ゴクリと生唾を飲み込んで、俯いた。どういう顔をすれば良いのか見当もつかなかったからだ。



 ドクドクと確実にド派手に脈を打っている心音だけが、体内に大きく響いている。自分の心臓が耳元に飛び出したんじゃないのかって程の音量だった。


 平野に気づかれたらどうしよう。聞かれたくない。どうかこの馬鹿みたいに揺れている私の心がこの男に伝わりませんように。なんて、人生で初めてと言っても過言ではない乙女な思考を巡らせる。



「永琉先輩、熱ある?」

「…残念ながら元気」

「じゃあ、体調が悪いからとか熱で頭が混乱していたからとかじゃなくて、ちゃんと永琉先輩の意思で俺の頭を撫でたってことだ」

「あ、どうしようやっぱり熱あるかも…「ねぇ、先輩」」



 こちらを射抜く相手の眼差しが痛い。ジリジリと肌が灼けてしまいそうだ。


 いつものふざけている口調とは明らかに違う平野の発言に、すっかりバグってしまっている私の鼓動が跳ねる。甘さと艶めかしさを孕んだ声色は、私の身体を冒している恋の病の進行を加速させる毒みたいだった。



ep.45 End




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