左手首に巻かれた時計に視線を落とした山田が胸ポケットから社員証とネクタイを取り出した。
まだ昼休みの時間だが仕事に戻らなければならないのだろう。出版社あるあるだ。勤務時間が変則的になってしまうのも、いつの間にか慣れてしまった。
山田は広報担当部署だから、夏休みに向けての様々な企画の宣伝準備に追われている時期だろう。
因みにsucréも、夏の特大号発売で広報部にはお世話になる予定だ。
「悪ぃ菅田、俺から話し掛けておいてなんだけど…「仕事、忙しいんでしょ?大丈夫分かってる。私の事は気にしないで良いよ」」
立ちあがった相手に合わせて手をヒラヒラと泳がせれば、心なしか山田が一瞬だけ酷く寂しそうな顔を浮かべた。
「あーあ、菅田と同じ配属が良かったわ」
「私も山田と同じ配属だったら心置きなく有給消化できてたわ」
「休む前提かよ」
「ゲームする為に働いてるみたいなところあるからね」
「ハハッ、まぁ菅田の有給消化の為なら喜んで働くけどな」
「こんなに優しいといつか詐欺に遭うぞ?……あ、山田」
「ん?」
「一個どう?」
踵を返そうとした相手の筋肉質な二の腕を突いてから、一切れのザッハトルテを軽く持ち上げて見せる。
そんな私に対し、山田は頬を緩めてクスクスと声を漏らした。
「折角の大好物なんだから譲らなくて良いよ、気持ちだけ受け取っとく」
「それに昔、ザッハトルテ一切れごときじゃまるで足りないって言ってたし?」と言葉を続けられ、そんな仕様もない私のジャイアン記録に脳内メモリ使うなよと素直に思った。
因みに、山田のその記憶は事実である。
「それよりさ」
いよいよ本当に仕事に戻る素振りを見せた相手が、何かを思い出した様に開口するもんだから、こちらの視線も滑る。
「お互い、今の仕事が一段落したら呑みに行かねぇ?」
双眸が捕らえたのは、微かに真剣な顔になった山田の姿。
今日も今日とて、相手のシャツには皺がないし、繁忙だと言う割には髪の毛もきちんとセットしてあって、ついでに肌荒れなんて微塵もない。
「良いよ、前はもつ鍋だったから今度は焼き鳥にするか」
「流石。俺達の夏の定番は焼き鳥だもんな」
「山田の好きなつくねと砂肝の美味しい店、この間結愛と呑んだ時に偶然見つけたから任せて」
「ん、その楽しみがあんなら山場も乗り越えられそう」
「大袈裟かよ」
「大袈裟じゃねぇよ、めっちゃ楽しみにしてる。じゃあな、菅田。あんまり無理すんなよ」
「特大ブーメラン。お互い生き延びて焼き鳥食べような」
「だな」
持つべきものは友であり頼もしい同期かもしれん。仕事全てを投げ出して逃亡を図りたい気持ちが今の会話で鎮まった。
小さくなってやがて視界から消えてしまった山田の背中をぼんやりと眺めながら、ザッハトルテを口に含む。
ちょっとだけビターなチョコレートの上品な甘さが、舌の上で蕩けていく。
「うま…」
お弁当を食べた後にも関わらず、二切れをぺろりと平らげてしまった己が恐ろしかった。
疲労で糖分を全身が欲してたんだ。そうに違いない。実質0キロカロリーだ。
醜い言い訳を並べて自らに言い聞かせていた私の意識は…。
「うう…やっとどうにか時間作れた」
突如視界に割って入ってテーブルの上で項垂れた平野へと集中した。
「永琉せんぱーい、社畜な俺の頭を撫で撫でして〜」
「無理」
整った顔だけこちらに向けて甘えた声を漏らす相手に、鼓動が跳ねたのはここだけの秘密だ。
ep.44 End