まともな昼休みを時間通りに取ったのは久しぶりな感じがした。
言わずもがなここ数日、(人間は十分にいるはずなのに)人員不足に見舞われ、いよいよ夢にまで出てきそうな程に仕事に追われていたからだ。
「労働」というこの世で最も私が嫌悪する熟語にストーカーされてそろそろ「辞表」という名の被害届を出す事も視野に入れた方が良いかもしれん、もうeスポーツプレイヤーを目指してそれで飯を食っていこうかなんて小学生や中坊が言い出しそうな未来展望を抱えかけたりもしたが、平野の復活をきっかけに私の両腕からタスクがごっそり姿を消した。
うんざりするまでに平野の存在の大きさを思い知っていたつもりだったのに、sucréにはあいつが必要不可欠なのだとまた実感させられた。屈&辱。
「……」
人がいない穴場スポット。窓際から程良く陽が射すそこは私の昼休みの指定席だ。そこに腰掛けている私の目線の先にあるのは彩豊かな手作りの和食弁当。その隣には出勤するなり好感度とポイント稼ぎの為にあの男がsucréメンバーにバラ撒いていたマカロンと同じ洋菓子店の印字がされている小洒落た箱。
冷たい箱を開いて中を覗くと、ザッハトルテが二切れ並んでいた。因みにザッハトルテは私が好きなケーキである。何で知ってんだよ。
愛おしい昼休みを取るべく優雅にオフィスを去ろうとした私を呼び止めた平野が、慌てた様にこの弁当とケーキの箱を押し付けてきたのはつい数分前の出来事だ。
「ううっ…一緒に永琉先輩とランチデートするつもりだったのに仕事が片付きそうにないです。悲しませてごめんね?」
「悲しくねぇしそもそも仕事片付くと思ってたのが凄いわ」
「という訳で俺の分もケーキ食べて下さいね」
「え、私にもケーキあったんだ」
「当たり前じゃないですか!?!?永琉先輩の為に買いに行ったんです!マカロンなんてついでのついで!」
「別に気を遣わなくて良いのに…「だーめ」」
強引に押し付けられたケーキの箱を手に困惑している私の言葉を遮った男は、コテンと首を軽く折って、唇の両端をクイッと持ち上げた。胸焼けしそうなまでに甘い笑顔だった。
平野のPC画面を縁取る様に貼られているタスクが記された付箋紙さえなければ、人気俳優が出演しているドラマのワンシーンを切り取りましたと言われても違和感がない程だった。
「先輩のおかげで治ったから、先輩に食べて欲しくて朝から並んだの。だから、困った顔しないでありがとうって言って?」
テメェにお礼を強要される筋合いなんてねぇよ。ちょっと前までの私ならそういう可愛げのない発言をサラリと放って顔を顰めていたのだろう。しかしながら今日の私は「…あ…ありがとう」そう言って視線を逸らすので精一杯だった。
そして平野 翔特製弁当とケーキの箱を抱えて逃げる様にここへやって来たのである。
こんなんじゃ!平野を好きだってバレるのも!時間の問題過ぎる!
まさか自分がこんなにも分かり易い人間だったなんて思ってもみなかった。28歳にもなって滅茶苦茶に乙女じゃねぇかよ私。非常に由々しき事態である。頭を抱えずにはいられない。溜め息を零さずにはいられない。
平野に対して素直に「ありがとう」が出てしまったのも、相手の思惑通りな感じがしてムカつくのだが、気付いたら「ありがとう」が出ちゃっていた。しかも平野が私にケーキを買う為にわざわざ並んでくれた事実に、キュンみたいな効果音が何処からともなく鳴った気がした。
「これが惚れた弱味という奴なのか…。」
口を突いて小さく落ちた呟きが、二つ並んでいるザッハトルテの上で溶ける。暗いスマホの画面に反射して映る自分の口角がへにゃりとだらしなく緩んでいる。
それに気づいて慌てて唇を結んだ刹那、突然右肩が重くなった。
「すーだ」
優しい声が鼓膜を揺する。私をこんな風に呼ぶ人間は、この会社で一人しかいない。
誰なのかを脳が特定したのとほぼ同時に、私の頬を柔らかな黒髪の毛先が擽った。鼻腔を掠めたのは、よく知っている爽やかな香り。視線だけを重くなった肩の方へと滑らせれば、視界が捕らえるのは、社外からもかなりおモテになられているらしい男の美しい横顔。
「これ、ザッハトルテ?菅田が好きな奴じゃん」
箱の中のケーキを指差しながらこちらを覗き込んだ相手は、そう言って…。
「山田……」
「最近ここに来てなかっただろ、俺寂しかったんですけど?」
クシャクシャと私の頭を撫でて、優しく頬を緩めて見せた。
ep.41 End