相手の手を振り払って立ち上がれば、それに続く様にして平野が上体を起こすから両手で思い切り奴の両肩を押してベッドに沈める。数日に渡る高熱で非力になったのか、将又私が不意討ちをしたからなのか、あっさりと平野の身体がボフッとベッドに沈む。
「キャーえっち!永琉先輩に押し倒されちゃった」
頬を紅潮させてモジモジしながら言葉を紡ぐ相手に対して、渾身の「はぁ?」という感情を顔に貼り付けた。阿呆らしくなってくるりと平野に背を向ければ、「…え、先輩襲ってくれないの?」さぞかし残念そうな声が掛かった。
お前病人なの忘れてんのか?ていうか何を期待してんだよ。
「はぁー、あんたがsucréに来た時から思ってたけど平野ってつくづく脳内花畑だよね」
「分かります、お花すら俺の引き立て役になっちゃう感じですよね」
「意味分からんけど絶対に違うわ」
「でも先輩はどんな花よりもずば抜けて綺麗ですよ」
「……」
「あ、どうしよう、俺ってば今日本一イケメンな台詞吐いちゃった」
「心配すんな、お前は一生日本一腹立たしくて残念なイケメンだから」
これ以上不毛で馬鹿馬鹿しい会話を続けていたら私を殺す勢いで溜まっている仕事にもいつまで経っても行けそうにないな。そう思って、強引に話を切り上げて平野の家の洗面所で洗顔をし、携帯用の歯ブラシセットで歯磨きを済ませた。時間はまだ朝の六時五十分だった。
あいつが大人しく横になっているのを確かめて、簡単な朝食と平野の昼食を作った。と言っても、焼き魚とアスパラガスの豚バラ巻きとエリンギのソテーと目玉焼きというフライパン一つで完結する物だけだけど。料理と呼んで良いのかは分からないレベルの品だけど。
平野や山田みたい見た目も美しくて栄養バランスの取れた料理が作れる女だったら、もっとちゃんとした物を作れたんだろうな。…まぁ、ないよりはマシだろう。そう言い聞かせる。
「え!?永琉先輩、他にもご飯作ってくれたんですか?」
完成した料理をタッパーに詰め終わった段階で、横から吃驚した声が上がって菜箸を持ったまま双眸を伸ばす。私の視界に映ったのは、目を見開いてパチパチと瞬きだけをしている平野の姿。
黙ってればケチの付け所がゼロの男は、昨日も風呂に入れていないはずなのに美しい。こいつに出逢ってからというもの、私はどうしてこんなにもこの世は不平等なんだと神様に文句を零してばかりである。
「美味しいか分からないけど食欲あったら食べて。あと薬もちゃんと飲んで…「食べる!!!全部!!!絶対全部食べる!!!嬉しい…ありがとう永琉先輩」」
大袈裟な奴。そう言いたかったけど言葉にできなかったのは、平野がホクホクとした笑みを咲かせて酷く喜んでいるせいだ。
目尻を下げてアスパラガスの豚バラ巻きを摘まみ食いした相手が「今まで食べてきたご飯の中で一番美味しい」なんて、恥ずかしい言葉を平然と落とす。
お世辞だと分かっていても心が擽ったくなるのは、こいつがピュアピュアな心で真正面から臆することなくぶつかってくるからだ。そのせいで、得意の毒一つすら吐き捨てられない。ただただ自らの心が激しく揺さぶられる感覚だけがする。
そんな己から目を背ける様に身体を反転させて床に視線を落とした。
「永琉先輩、仕事本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だって言ってんじゃん。たまには先輩を信じて任せろ」
「当たり前信じてるに決まってるでしょ……ただ、純粋に永琉先輩の身体が壊れないか心配してるんです」
「私、身体だけは頑丈だから心配すんな」
「心配するに決まってるじゃん。……心配くらい、させてよ」
「ねぇ、永琉先輩」耳元で溶ける言葉は大変に甘美だ。知らない体温がくっ付く感覚が背中越しに伝わる。それから間もなくして私の腹に回された相手の腕が交差して強く身体を抱き締められた。左の肩だけが重みを感じる。平野が顎を乗せたからだと察するのに時間は必要なかった。
自分の心臓が騒がしい。耳障りなまでに音を鳴らしている。鼓膜が拾う平野の息遣いにじわじわと頬が熱を孕んでいく。
換気扇だけでは払い切れなかったらしい料理の匂いが充満しているキッチンは、私も平野も無言を暫く貫いたからなのだろうか、嫌に静かだった。
嗚呼どうか。どうか平野が何も言いませんように。そんな祈りを胸中で捧げる。
「先輩」
人が祈ってる傍から喋んな馬鹿。こっちの都合も状況も知らないで開口すんな阿呆。
「…すき」
お願いだからもうこれ以上は喋んないで。
「大好きです」
“永琉先輩”
ほらな、こんな事を言われてしまったら私は…私は……—。
「先輩は、俺のこと、嫌い?」
「(好きになっちまったよ、バーカ)」
全身を包む平野の甘い微熱に、全てが溶かされていく様だった。
ep.39 End