あークッソ、これじゃあ本当に帰れないじゃんかよ。
相手が起きてしまわない様に忍びか?って位に息を殺してそっと自分の手首から平野の手を解く。楽な態勢に変えてあげよう、なんて、私らしくない優しさに突き動かされるがまま、依然として熱い相手の身体に触れる。
しかしながら平野の推定180cm以上の平野の身体を扱うのは容易ではなく、不器用な私の手に掛けられてしまった平野は結果、どう見ても苦しそうな態勢になってしまった。何かごめんな、ドンマイ。
なけなしの詫びの気持ちで枕を頭の下に敷いてどうにか誤魔化そうと思案し、私が来た時から何故か不自然に床にぶん投げられている枕を拾い上げれば、その下から大量の紙が姿を現してぎょっとした。
「これ…全部仕事の…」
企画書や、次の広報部との会議に使う資料。それだけじゃない、イラストや漫画に関する本も何冊か見受けられ、それとセットでスケッチブックまである。慌てて隠したのか、鉛筆や消しゴムのカスが殺人現場の血みたいに飛び散っていて、一番気になったスケッチブックの表紙を捲った。
そこに描かれていたのは、
どれも上手だった。説明がなくともこのスケッチブックに努力と情熱が込められている事くらい、心がシベリア並みらしい私でも十分に察せた。
なーにが少し絵の勉強しただけだよ。滅茶苦茶努力してんじゃねぇか。阿呆みたいに何度も何度も同じデッサンを繰り返し描いてんじゃねぇか。
いつだって余裕風を吹かせていて、どんな仕事も難なく卒なく飄々とこなしちゃう厭味な奴。私の中にあった平野 翔の人物像がボロボロと崩れていく。こいつの裏にあった努力に目を向けようとすらせず、ただいけ好かない野郎だという烙印を押した己が恥ずかしくなった。
スケッチブックの表紙には平野の字で「No.23」と記されている。だとしたらこいつは、既に二十二冊以上のスケッチブックに絵を描いて勉強していたという事になる。
描かれている絵に乗せられた果てしない努力が手に取る様に分かって、胸の奥がキュウっと締め付けられて痛かった。
己の顔に容赦なく陽射しがぶっ刺さって、瞼を持ち上げた。夢現なのに勝手に右手がゲーム機を探している。習慣とは実に恐ろしい。しかしどんだけ手繰り寄せても一向にゲーム機が見つからない。
はて、可笑しいな。死んだとしても遺体と一緒にゲーム機も燃やしてくれと結芽には頼んでいるからここがあの世だとしても、ゲーム機だけはあるはずだ。不可解な状況に怪訝な顔をして視線をゆっくりと動かした。
そしてスヤスヤと穏やかな寝息を立てているクソ綺麗な平野の寝顔を見て、私は自分が平野の住んでいるマンションの一室に居る事をやっと思い出した。
「初めて訪れた家で寝れる私の神経の図太さヤバいな」
寒気がしたのは別に冷房が効き過ぎているからでもなく、平野から風邪が移ったからでもなかった。自らの危機感のなさにゾッとしただけだった。どうやら私はベッドに頭だけを預ける形で寝てしまったらしい。アラサーだからちゃんと首を寝違えている。アラサーだからしっかり数日はこの首の痛みを引き摺るに違いない。はい、オワタ。
首が死んだ事に絶望を覚えながら平野の額に手を当てれば、昨晩よりは熱がずっと下がっていた。
「…でもまだあるな。こりゃあ今日まではこいつの休み確定か」
取り敢えず復活の目途は立ってくれそうで安心する。起こさない様に相手の額から手を離せた刹那、私の手が毛布から伸びて来た手に握られた。おい、指を絡めんな。シレっと恋人繋ぎすんな。離せ。
伏せられていたはずの瞼が開いていて、寝ていたと思っていた平野に視線を絡め取られた。
「今日は出社しまーす」
「馬鹿か、まだ熱あるだろ」
「もう治った」
「世界一分かり易い嘘だな」
「本当に治りました」
「はいはい、虚言は良いからちゃんと休め」
「それじゃあ永琉先輩が今日も看病してくれる?」
「……」
「なーんて、流石に冗談です」
「冗談で良かった、本気なら撲殺してた」
「ひっどー!sucréのビジュアル担当の顔に傷付けるつもりだったんですかー?」
「自分でビジュアル担当とか言うところ、本当にお前らしいよね」
「えへへ、照れる。ありがとうございまーす」
厭味だからな。微塵も褒めてねぇんだわ。頬を人差し指で掻いて破顔している相手は、今日も今日とて平野 翔だ。息しているだけで何かムカつく。こいつはそういう奴である。
ep.38 End