湯気を立てているお粥と、彩りとして添えた青葱と半熟ゆで卵。そして豚汁。それ等が置かれたテーブルを前にした平野は口をあんぐり開けながら、瞳をきらりんレボリューション(世代)
「…永琉先輩が作ってくれたんですか?」
「逆に私以外誰が作るわけ?お粥くらい焦がさず作れるって事を証明してやろうと思って」
「うわーーーどうしよう頭がフワフワしちゃう」
「熱のせいだろ」
「違いますよ!!!永琉先輩が俺に手料理を振る舞ってくれたという甘い現実にです!!!幸せで脳が溶けちゃいそう!!!」
「あんたの脳はいついかなる時でもドロドロに溶けてるじゃん。少しは凝固しろって思ったことしかないんだけど」
カシャカシャカシャカシャカシャ。
「嬉しい~。記念にちゃんと物的証拠を残しとこっと」
「話聞けよ。てかそんな見映えの悪い献立の写真をわざわざ残すな」
「ふふっ、何だか熱出して良かったかも」
「馬鹿じゃないのさっさと食べろ」
様々な角度からの撮影会を済ませた相手は、私の台詞にとろりと目尻を下げて「はーい」と間延びした返事を零す。高熱に冒されている癖にヘラヘラ笑ってやんの。そして絶対にこいつが今撮ってた写真はデータの容量しか食わないだろう。データ食う前に目の前のご飯をちゃんと食え。
手を合わせていただきますと小さく漏らした平野が、木製のスプーンでお粥を掬ってフーフーと息を吹きかけた。自分の作ったご飯を誰かに食べて貰うのは初めてだという事実に気付いてしまった私は、変に緊張していた。
心臓がドックンドックンしているけど、できる限り平静を装って頬杖を突く。やがてお粥を口に含んだ平野と視線が絡まり、破顔した相手が放った「すっごく美味しい」の一言に拳を握っていた手が緩んだ。
嗚呼、人に美味しいって言って貰えるってこんなに嬉しいのか。ゲームに時間を割いてきた人生だから、料理のレパートリーは目を見張る程に少ない。そんな私が有している僅かな技術で作られたお粥と豚汁を平野は阿呆みたいに「美味しい」「本当に美味しい」ってベタ褒めしている。
それが無性に照れ臭く感じて、何となく視線を逸らしてしまった。視線を逸らした先には花瓶に花が生けられていた。随分と丁寧な暮らししとんなこいつ。そう思った。
ものの十五分で空になった食器に、胸が擽ったくなる。ご飯すら食べられない状態だったらどうしようという懸念が杞憂に終わって心底安堵した。
解熱剤と水の入ったグラスを準備した私がリビングに戻ると、さっきからずっと頬を緩めてばかりいる男が待っていた。テメェ病人だろ、一刻も早くベッドに潜れよ。
「ちょっと」
「ん?」
「ん?じゃない。しれっと私の肩に頭凭れさせんな」
「痛い痛い痛い痛い。ちょっと永琉先輩酷い!病人の頭強引に押さないで下さいよ」
「そんな暇あんなら解熱剤飲んで休め」
「うぅ…辛辣だ…シベリア並みに冷たい…」
「体調、大分しんどいんでしょう?あんたの担当している漫画家先生から聞いた」
「あはは、迷惑掛けてすみません」
「別に。迷惑被ってるとか思ってないから」
「……」
「何その潤んだ眼」
「だって…だって永琉先輩が狡いこと言うから…そんな事言われたら…言われたら…余計に好きになっちゃうじゃん」
「はぁ?」
ぐにゃり。歪んだ私の表情には、そんな効果音が当て嵌まる。それからじんわりと頬に熱が集中していく感覚を抱くまでに数十秒を要した。顔が火照っていると分かった途端に身体まで熱くなってきた。
こんなの、私らしくない。全く、私らしくない。
恥ずかしい台詞を平気で吐くこの男に照れていると覚られれば冷やかしの言葉を投げられるかもしれないと思ったが、私よりもずっとずっと分かり易く紅潮した平野の綺麗な顔を双眸が捉えた。
口許を手で覆って視線を泳がせている平野は、不自然にベッドへ上がり抜け殻みたいになっている毛布に包まって顔を隠してしまった。何でお前が発言した事なのに、お前の方が告白を受けたみたいなリアクション取ってんだよ。
平野の一挙手一投足に突っ込み処は山の如しだが、平野が私から視線を逸らしてくれた事がありがたいというのが正直な感想だった。だって、自分の心臓が耳元で鳴っているみたいに煩いから。身体の隅々にまで響かせるみたいに鼓動を刻んでいるから。
あのまま、平野が私の肩に頭を凭れさせていたら、この心臓の高鳴りを聴かれてしまっていた自信しかない。だから今だけは、一人で乙女劇場を繰り広げているあいつに感謝せざるを得ない。
無言の時が数分流れた。私の推測が正しければ、お互い熱くなった身体を落ち着かせるのに必死だったのだろう。そうであって欲しい。私だけドキドキしてたとしたら最高に癪だ。
「…永琉先輩、もう帰りますか?」
そんな言葉が鼓膜に触れ、熱い体温に手首を掴まれてハッと我を取り戻した。よくぞ帰還してくれた菅田 永琉。お帰り私。
視線を滑らせた先にあったのは、毛布から腕だけを伸ばして私の手首を掴まえている平野の手。華奢に見えるのに、しっかりと主張している指の関節に無意識に「男」を感じてしまう。やはり貴様、骨格ナチュラルだな?
おさまっていたはずの鼓動が、ドキリと音を立てた。ゆっくりと毛布から顔を出した平野の瞳が、私を見上げる。無駄に身長が高いこいつに物理的に見下ろされてばかりだったから、この角度で望む平野の表情が酷く新鮮だった。
「帰らないで欲しいって俺が我が儘を言ったら、聞いてくれますか?」
「ううん、無理。帰る」そう言おうと思って口を開いたはずなのに、ただ息を吸っただけで終わった。私が返事をするよりも先に相手が「傍に、いて。俺の傍に、いてよ先輩」そんな台詞を胸焼けを覚えるまでの甘い声で吐いたせいだった。
私は
「何で、居て欲しいわけ?」
「好きだから」
「…っっ」
「大好きな永琉先輩をもっと独り占めしたいから。それだけの理由です」
「クソ我が儘」
「うん、だから俺の我が儘って最初に言ったじゃないですか~「今回だけ」」
「え?」
「あんたにこれ以上風邪拗らされるといよいよsucréの存続の危機だから、髙橋編集長の為にも今回だけはそのあんたの我が儘って奴を聞いてあげても良い」
それなのに私は一体、今何を言っているんだ。テメェは正気か。
今からでも決して遅くはない一刻も早く前言撤回をして…「ふふっ、最高に嬉しい。やっぱり熱出して良かった、だってこんなに永琉先輩を独り占めでき…る…から。」
巡らせていた思考が平野の声に反応して停止した。やはり熱で身体は限界だったらしい。己の視界が次に捉えた光景は、私の手首をギュッと握ったまま変な態勢で眠りに落ちた平野の姿だった。
ep.37 End