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ep.36ピュアピュアハートな男①


 世界一不要な情報に思われたあいつの住所が、まさかこんな形で役に立つ事になろうとは。


 因みになのだが、あいつは引っ越す度に新しい住所と住んでいる階数、更には部屋番号まで教えてくる。だから私は、道に迷うこともなくここまで辿り着けたのだろう。



 部屋番号を打った後に呼出ボタンを押した。ドキドキと胸が音を立てているのは、初めて訪れる場所への緊張からだと言い聞かせる。「はーい」少し擦れた元気のない平野の声が耳に触れてから僅か三秒後。



「え…ぇえええええ永琉先輩!?!?!?えええええええ!?!?俺もしかして死んじゃった?遂に幻覚見え始めてる感じ?」



 すぐにいつもの鬱陶しい平野が戻って来た。


 何だよ、結構元気じゃん。声を聞いてちょっと安心した。これで呼び出しにも応えられなかったらいよいよ救急車を手配しなければと思っていたから、119に掛ける準備をしていたが必要なかったらしい。携帯をポケットに仕舞った後「騒いでる暇あったらオートロック解除して」と未だにギャーギャー言ってる男に対して放った。



「あ、え?本物の永琉先輩だ…この冷たさは本物しか出せない奴だ」

「あんた喧嘩売ってんの」

「違いますよ~。永琉先輩と結婚できてないのに死んだのかと思って気が動転してただけです」

「結婚する未来が決まってるかの様に言うのやめろ…「オートロック解除しました!」」



 せめて人の話は最後まで聞け。何度も言うが一応私先輩だぞ。いつもと変わらない調子の平野に全身の力が抜けていく中、まだ喋り続けている平野を無視してマンションのエントランスに足を踏み入れた。


 正直、私の住んでいるマンションと平野のマンションが異常に近いという事実にちょっとだけ驚いている。最寄りの駅も一駅しか変わらない。


 停止したエレベーターから降りて平野の部屋番号が表記されている扉の前で足を止めた私が、部屋のインターホンを押すよりも先にガチャリと目前の玄関扉がゆっくり開いた。


 隙間から流れ出る様にしてこちらの鼻腔を掠めるのは、仕事中いつも隣から広がる甘い香りだった。たった数日だけはなずなのに、随分と久しくその香りと離れていた感じがする。



「何で帽子被ってんの」

「だ、だって…ずっと寝てたので髪の毛ボサボサで…永琉先輩に見られるの恥ずかしいから」

「……」



 甘い香りと共に姿を現した平野の顔は、深く被っているバケットハットとマスクのせいでよく見えなかったけれど、体調が全くよろしくないと覚るには目元だけで充分だった。


 顔色が頗る悪い上に、まだ熱があるのか露出している部分の肌が火照っている。「髪の毛のことなんて一々気にしてないでちゃんと寝てなさいよ」溜め息を吐きながら相手から帽子を奪い取ったら、平野が自らの顔を手で覆って「ちょっ…やだ…こんなヨレヨレな俺見せたくなかった…」そう小さく漏らした。


 お前は何処ぞの乙女かよ。



 こいつ、見ない間に痩せたな。痩せたというよりげっそりしてると表現した方がぴったりと当て嵌まるかもしれない。入社して来た時からずっと細身で、貴様はモデルか?と問いたくなるまでにその体型を崩す事がなかったけど、目前にいる平野は今までで一番痩せていた。


 私がつんと突いただけでいとも容易に折れてしまいそうなまでの美脚がスウェットを履いていても確認できる。「永琉せんぱーい、俺の脚ってBLACKPINKのLISAみたいじゃないですかぁ?」何年か前にこいつが自分の脚を組みながら腹立たしい台詞を吐いた瞬間を不意に思い出した。こいつを殺してやる。あの瞬間私の心に沸いたのは殺意だけだった。



「…っ…永琉先輩そんなに顔近づけて何するつもり……「やっぱり熱高い」」



 ぐいっと距離を縮めて相手の額に触れれば、酷く熱い温度が指に伝った。38℃以上はあるであろう体温に、ぐしゃりと己の表情が崩れていく。


 あの時、私が傘さえ持っていればこいつが雨に濡れる事はなかった。熱で苦しむ事もなかった。そんな後悔が募らないといえば嘘になる。まさか平野に対してこんなにも申し訳ない気持ちを抱く日が来るなんて…一生の不覚だ。



「はぁーーー」

「何で溜め息!?!?ていうかその目何ですか!?!?冷たっ!!!凍えて余計熱上がりそう!!!」

「うるさい、さっさと寝てろ」

「え、ちょっ…永琉先輩…」



 強制的に腕を引いて平野をベッドに沈め、すかさずベッドの隅でぐじゃぐじゃに纏まっている羽毛布団を掛けた。レジ袋を漁って冷えピタを開封し、相手の前髪を手で掬いあげてから毛穴のない綺麗なおでこにそれを貼り付けた。冷えピタを貼り付けても平野はイケメンだった。


 どうか来世では犬のうんこ位に降格してますように。最低な願いを心で唱えたのはここだけの秘密だ。


 放置期間が長かったせいで伸び放題になっている自分の髪を高い位置で結い上げて、お粥に必要な材料を取り出す私をチラッチラッチラッチラッ見てくる平野の視線が鬱陶しくて首を横に折って「何?」と問う。



「……キスされると思っちゃった」



 返されたアンサーに、やはりこいつは高熱で脳味噌が溶かされているのだなと思った。


 「永琉先輩が顔近づけてきたから…sucréでありがちなそのままキスして熱が移っちゃう的な展開かもって胸がドキドキしちゃった」布団に顔を埋めて唯一覗かせている双眸に私を映した平野は、更に続けて開口した。



「だからちょっと…ううん、凄く残念だなって落ち込んでるなうなので、慰めてくれますか?」

「普通に無理」



ep.36 End




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