「うわーーーん!菅田さん本当にありがとうございます。おかげで締め切り間に合いそうです」
「こちらこそ、いつも素敵な漫画をありがとうございます。締め切り間に合いそうなら良かったです」
午後九時半。平野が担当している漫画家先生の作業部屋で、先生が泣きながら私に抱き着いた。締め切りに追われながら描いているせいだろうか、髪の毛もボサボサで上下灰色のスウェットもヨレヨレになっている。
作業部屋には私が今の今までトーン貼りや、簡単なペン入れを手伝っていた原稿が積み重なっている。進捗を速める為に午後の休憩をコンビニのサンドイッチで手短に済ませてからその足でここを訪れたが、どうにかこうにか脱稿が見える段階まで進んでくれた。
「いつもいつも、締め切りギリギリでごめんなさい」
「何とかなっているので心配しないで下さい」
本当は余裕をもって描いて欲しいが、そんな我が儘は言ってられない。漫画家先生にも個人差があるし、すぐにでも気絶しそうな様子で私の目前に立っているこちらの先生は特に一話一話を丁寧に描き過ぎてしまう癖があると熟知している。
物語に真摯に向き合ってくれているのだから文句なんてある訳がないし、わざとじゃない事くらい痛いまでに知っているから憤りなんてこれっぽちも湧かない。これはほんの気持ちなので受け取って下さいと差し出されたのはレッドブル。大変にありがたい。
アルミ缶のタブを指で持ち上げればプシュっと音を出して開いたそれを、遠慮なくごくごく流し込む。
「あの、ずっと気になっていたんですけど、平野君と菅田さんってお付き合いしてどれくらいなんですか?」
「ゴフォッ…ゲホッゲホッ…」
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です…気管に入って一瞬三途の川見えただけですから」
己の口から噴水みたいに飛び出して床に散ったレッドブルの亡骸を慌てて拭く。
割と本気で窒息死するかと思った。レッドブルに殺されるかと思った。
「どういう誤解があるのか存じませんが、私と平野はただの先輩と後輩で同僚ですよ。交際関係なんてないです」
「ぇえええええええ!?!?!?そうなんですか!?!?!?てっきりお付き合いしているのかと…平野君、いつも顔を合わせる度に菅田さんの好きな所を幸せそうな顔で語るので」
「平野が?あんにゃろう、またいらん事を…「少しでも菅田さんを支えられる存在になりたいって言ってました。sucréを背負っている永琉先輩が苦しくならないように俺も頑張らなきゃいけないって口癖の様に言う平野君は、私の描いているヒーロー顔負けのイケメンっぷりなので、実は勝手に創作に活かしたりしちゃってます」」
「……」
えへへと声を漏らしながら恥ずかしそうに口角を持ち上げる先生に「あんないい加減な奴を参考にしたら読者離れますよ」と毒を吐けるはずもなく、自分の胸の奥が擽られる様な感覚に晒された私は、静かに眉間に力を込めた。
***
私何でこんな場所に来てんだろ。あいつらしい小洒落たマンションの前で足を止めた私は、ふと我に返って踵を返そうとした。しかし己の両手に提げられた大きなレジ袋に大量に入っている品物を視界に捉えて、引き返す事を思いとどまった。
乳白色の袋から透けて顔を見せているのは、果物たくさんゼリーやウィダーインゼリー。それからカロリーメイトとポカリスウェット。更には比較的身体に優しいと思われるレトルトや冷凍食品という面々だ。
「あーあ、あんな話聞いたせいだ」
誰にも届かない盛大な独り言が盛大に虚しくその場に溶ける。ぐしゃりと表情を崩した私の脳裏で再生されるのは、ついさっきまで一緒に仕事をしていた先生の放った一言だった。
「今日平野君から連絡が来たんですけど、殆どベッドから動けてないらしくて心配ですよね。いつもお世話になってるから何かしらお返ししたいんですが、丁重にお断りされちゃって…早く良くなってくれると良いなぁ」
過労で酷使された己の肉体の心配をいの一番にした方が良いに決まっているのに、酷く案じている表情を浮かべて眉を八の字にした先生の言葉のせいで、無意識にスーパーに立ち寄ってしまっていたし、看病セットを買い物かごにぶち込んでレジを通していた。
因みに、解熱剤と冷えピタとアイスノンも買ってしまった。そして私の足が赴いた先にあったのが、目前に聳え立っている平野が住んでいるらしいマンションという訳だ。
どうして大嫌いな奴の住まいを私が知っているのかという疑念を抱いた人間が少なからずいるだろうし、変に誤解されたくないからしっかりと説明しておくのだが、私は別に平野のストーカーではないし、平野の情報を会社に保管されているであろう履歴書から盗んだ訳でもない。
別に尋ねてもいないし心底興味がなかったにも関わらず、あのお喋り平野が引っ越す度に新しい住所をメッセージアプリに送ってきやがるせいで、私はあいつの住んでいるマンションを知っているのだ。
ep.35 End