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ep.32嫉妬を爆発させる男①


 景色の流れるスピードが余りにも速くて、ここに来るまでどんな人と擦れ違ったのかも、どういった店が並んでいたのか一つも覚えていない。それもこれも、私の腕を強く捕らえて離さない後輩のせいだ。



「平野、一旦ストップして」



 この台詞を数分の間で何度放っただろうか。そして無言が返って来るのも何度目だろうか。半歩だけ前を行く平野の後頭部しか見えない。どんな表情をしてんのかも分からない。私の手首を握る相手の力が痛かった。



「マジで止まって」

「……」

「おい平野」

「……」

「平野ってば」

「……」



 おいおいおいおい、ここまではっきりきっぱり無視するか?私一応お前の上司なんだけど?これでも先輩なんだけど?


 ポツリポツリと降っていた雨粒の地面を叩く音が徐々に増して、平野の肩を濡らしていく。平野のシャツにできたドットとドットがくっついて大きな染みになり、どんどん濡れている面積の方が広がっていく。



 いつも腹立つまでにお喋り野郎だから、こんなにもだんまりを決め込まれると調子が狂う。突然現れて山田を煽り、「山田さんはこっからご自宅のマンションが近いって有能な中島ちゃんから聞いてるので、そのまま帰って大丈夫ですよ?先輩は俺がちゃんと送り届けまーす」そう言って私を拉致連行したこいつに文句の一つや二つ投げ付けたいのに、平野の様子がいつもと違うせいで憤りすら覚えない。


 山田はどうしているだろうか。出没した平野を前に吃驚して言葉を失っていたけど、平野に腕を攫われた瞬間、「菅田!!!」って呼ぶ山田の声を背中で聞いた。



「濡れてないと良いけど…って、山田なら傘持ってるか…っ痛っっ」



 散々無視してこんだけ人の腕を引いて歩いていた癖に、沈黙を貫いたままの平野が足を止めたせいで思い切り身体が平野の背中にぶつかった。珍しく菩薩みたいな心でいた私も流石に限界突破サバイバー。


 雨と平野の香水が混じった匂いに向かって盛大に舌打ちを零した私は、鋭い眼光で平野を串刺しにして……やろうと思った。思ったけど、できなかった。



 くるりと身体を反転させてやっとこっちを向いた相手が、私の頭上に持っていたらしい傘を広げた。自分の身体が濡れる事を顧みず、雨を凌げる僅かな傘の部分全てを私に寄越していた。


 相変わらず平野は無言だった。その無言が気味悪かった。つくづく平野らしくなくて、奇妙だった。



「何してんのあんた。早く傘に入りなさいよ、風邪引く…「そんなに山田さんのことが気になりますか?」」

「……」

「そうですよね、永琉先輩は俺のことなんてどうでも良いですもんね」

「はぁ?」

「山田さんの名前、永琉先輩の口から聞きたくない」



 五月雨と共鳴するみたいに吐き出された平野の声は、泣いているみたいだった。


 もしかすると実際に涙を流していたのかもしれない。本当に泣いていたのかもしれない。ぐしょぐしょに濡れた平野の綺麗な顔を伝う雫は、雨なのか涙なのか判然としなかった。



「自分が子供っぽいって分かってます。もっと余裕のある大人でいたいのに、永琉先輩はいっつも俺が必死で作った平野 翔をいとも簡単に崩す」

「…私のせいかよ」

「そうですよ、永琉先輩のせいです」

「……」

「こんなに苦しいのに…こんなに苦しいのに、毎日永琉先輩に恋してしまう。今日だって、今だって、俺は永琉先輩に恋してる。俺だけを見て欲しいって彼氏でもないのに独占欲を膨らませてる」



 ぐしゃりと表情を乱れさせた平野が、私を掴んでいた手で腕を撫でて、這う様に滑ったそれがやがて私の指を絡め取った。



 「何で恋人繋ぎなんだよ、頭沸いてんのか」これまでの私なら、眉間に皺を寄せてそんな毒を吐き散らしていたかもしれない。お世辞にも可愛いとは形容できない表情で、当たり前の様に平野を突き放していたかもしれない。


 それ等を躊躇ったのは、目前に立っている平野が弱り切っていたからだ。それから…。



「山田さんじゃなくて、俺を好きになってよ、永琉先輩」

「…っっ」



 それから、平野に心臓を掴まれたみたいに、ドキリと大きく脈を打ったからだ。だから私は、平野に毒も吐けなかった。だから私は、こいつを突き放せなかった。


 雨に濡れたアスファルトには、夜のネオンが反射して滲んでいた。一人は傘の中で、一人は傘の外で濡れている私達を沢山の人が追い越して駅の改札へと歩いていく。


 水も滴る良い男なんて言葉があるけれど、今のこいつにぴったりって感じだ。無造作に髪がセットされていなくても、お洒落な服が濡れて台無しになっていても、ムカつく程に平野は綺麗だった。



「あんたの手、冷たくなってる」

「ふふっ、永琉先輩に温めて貰うから平気です」

「馬ッッッ鹿じゃないの」

「アハハ~、冗談で…「今日だけだから」」

「…え?」

「仕方ないから、今日だけは温めてあげる。私に傘をさす為にあんたが濡れて冷えてるんだから、温めないと私最高に嫌な女じゃん」

「え~そんな事ないですよ~。ていうか永琉先輩が珍しく優しいからこんな豪雨になっちゃったのかも」

「あ?何だと?じゃあもう良い。自分でどうにかして温めろ」



 元気は半分以下なものの、平野らしさが戻った相手の口調にほんの少しだけ腹が立って手を振り払おうとしたけど、まるで私がそうする事を読んでいたかの様に絡まった指をギュッと強く締められてあえなく失敗に終わる。



「ねぇ、永琉先輩」

「何よ」

「好きです」


“今日も明日も明後日も”


“ずっとずっと、永琉先輩が大好きです”



 私の耳元で囁いた平野は、甘える様に濡れた額を私の肩にくっつけた。




ep.32 End





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