丁度良い感じに頭がふわふわして、ちゃんとした酔っ払い状態で私達は店を後にした。外に出て、星でも見えるかななんていう薄い望みを都会の夜空に託して天を仰げば、雨を降らしそうな雲が広がっていた。
そうだった、梅雨だった。湿度の高い風に攫われ、すっかりうねっている自分の毛先を持ち上げる。「降りそうだな」私の隣でそう零した山田が鞄から折り畳み傘を登場させたのを見て、己が今宵も傘を持っていない事に気付いた。
駅のある大通り目掛けて、山田と肩を並べて路地を歩く。駅から少し離れているせいか、路上を行き交う人は数えられる程度しかいない。
「なんか奢って貰って申し訳ない、弁当のお礼だったのに」
「良いって。菅田と呑めて嬉しかったから気にすんな」
「ありがとう、ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
ヒールの先で偶然蹴ってしまった石ころがコロコロ転がって、マンホールの溝にピタリと嵌った。刹那、まるでそれが合図だったみたいにポタリと空から雨粒が落ちてマンホールの蓋にドット柄を描いた。
まだ傘をさす程の雨じゃないけど、こりゃあ絶対に駅まで持たないだろうな。持ったとしても、乗り換えを二回して帰宅するまでには百パーセント大雨になるよな。やむを得ん、コンビニでビニール傘を買うしかない。さようなら700円。
玄関にある既にビニール傘五本が刺さっている傘立てに、新メンバーが加わることになりそうだ。独り暮らしなのに傘六本って…いかに自分が学ばない人間なのかがよく分かる。
手首にしている腕時計は、夜の11時を回ろうとしていた。平野はちゃんと残業を片付けられただろうか。平野の担当している漫画家先生は、いつも締め切りに間に合うか間に合わないか分からない程に冷や冷やするスケジュールで描くタイプだから、あいつはあいつなりに大変なんだろうな。
って、私は何でまたあいつの事を考えてしまっているのだろう。
「菅田」
平野ウイルスに脳味噌が食われているのではないかという懸念を募らせていると、隣から名前を呼ばれて地面に投げられていた視線が左にいる山田の横顔へと滑る。
正面を向いたままの山田が、「さっき、仲の良い同期と思ったことも友達と思ったこともないって言ったけど、それだけじゃ菅田は気付いてくれないだろうし、勘違いされそうだからちゃんと言わせて」そう開口して私の方へと顔を向かせた。
また一粒。降って来た雫が、山田の肩に着地してシャツに染みを作る。首を横に折った私の頬へ手を伸ばした山田がゆっくりと自らの口角を持ち上げる。
「好き」
「……え」
「俺、ずっとずっと、菅田が好きなの。勿論現在進行形で」
“だから俺は、菅田を仲の良い同期と思えないし”
“友達とも思えない”
私の頬に触れた山田の掌は、火照っている私の体温よりも全然熱かった。
女性漫画の編集者としてのキャリアをスタートさせた私が一番最初に躓いたのは、世間一般的な女性の胸キュンポイントが全く分からないという致命的な障壁だった。
殆ど無縁だった少女漫画や女性漫画を取り敢えず読み漁って、むずキュンとかじれじれと評されて女性人気の厚いドラマを手当たり次第に鑑賞し、場違い感を覚えながらもsucréの編集者という己のタスクに喰らい付いてきた。
努力の甲斐あってか、今ではすっかり「あ、こういうシーンとか読者受け良さそうだな」と何気ない日常の中でも感じるようになったし、漫画家先生との今後の展開に関するやり取りに苦手意識を抱かなくなった。
正直、未だにどんな作品にも胸キュンした事はないし、やっぱりどうしても私の興味や関心や意欲をそそるのは、何処かの男女の恋愛よりも、己が課金しているゲームのレベル上げやイベント報酬の方だ。それはキャリアをある程度積んだ現段階でも揺るがない事実だ。
で、ここまで散々長々と語ってるけど結局お前何が言いたいん?この愚にも付かない小説を読んでいるそこの貴方はそう思った事だろう。それじゃあ手短にお伝えしようと思う。
「ずっと菅田に恋してんの、俺」
この展開、もしかしなくても私はsucréの呪いにかかってsucréに連載されている物語の中に迷い込んでしまったのではないだろうか。ちょっとだけ気まずそうに唇の端を持ち上げた山田に告白された私が思った事は以上である。
「……え、山田酔ってる?」
なんかこういうシチュエーション、女性受け良さそうだな。次、展開の相談を持ち掛けられた時に漫画家先生に言ってみようかな。この期に及んで仕事脳を働かせている私は、女として本当に可愛くない。自分でも分かる。
そして告白された後の第一声も恐ろしいまでに可愛げがない。私が山程読んだ漫画のヒロイン達はこんな時、こぞって赤面して瞳を橋本環奈くらいチュルンチュルンにさせてたのに。
心拍数は上がっているけど、アルコールが原因なのか山田の不意討ちが原因なのかが不明。大凡前者で間違いない。自分で軽蔑するくらい頭も心も冷静だからだ。
「かもな。結構酔ってる自覚ある」
「やっぱり。あそこにコンビニあるから水買って…「でも、ちゃんと理性もあるから」」
数十メートル先に佇んでいる青と白が特徴的なコンビニへ行こうとした途端、ぐいっと手首を強く引かれ、傾いた私の身体が着地したのは熱い体温の中だった。頬に密着しているシャツから山田の香りがした。
何より、シャツ越しに聞こえる山田の心音が、激しかった。
ぎゅっと身体をきつく抱き締められている。自分の置かれた現状を理解するのはそこまで難しくはなかった。
「理性がある上で菅田のことが好きって言ってんだけど?」
「……」
「だから逃げんなよ」
“頼むから、逃げようとすんな、菅田”
縋る様に耳元で吐き出された山田の声は、微かに震えていた。
嗚呼、どうしよう。ここで漸くそう思った。できることなら今すぐここで気を失いたい。そんで目覚めたら記憶喪失したフリをする。そしたら何事もなかったように繕えるかもしれん。
そしたら、友達のままでいられるかもしれん。仲の良い同期のままでいられるかもしれん。その方が良かった。だって、どっちも傷付かないじゃん。だって、どっちも苦しくないじゃん。…って、そんなの私のエゴに過ぎないか。
山田は今まで私の何気ない言動で傷付いてきたかもしれない。苦痛を強いられていたかもしれない。
だけどごめんな山田、私はクソみたいに自己中な女だから、山田とこれまでみたいな関係性が不変なままずっとずっと続いて欲しかったなんて生温い願望を抱いてしまってる。
「いつから?」
「ずっと」
「ずっとって?」
「高校生の頃から」
「ガチでずっとじゃん」
「言っただろ?俺、超菅田一筋だから。舐めんな」
返答に困る。大変困る。最低だから、こんなクズの何処が好きなの?てかよくこんな人間を一途に想えるな山田!?!?って口を滑らせてしまいそうだ。
思ったことを口に出してしまわぬように、一旦唇を固く結んで山田の顔を見上げる。眼を細めてはにかんでいる相手の端整な顔だけが視界を独占する。雨粒がポタリと落ちる音以外、沈黙にも似た静寂が辺りを包んでいる。
でも確かに、私と山田の関係性が崩れていく音が聴こえた。
「何でまた急に?」
「このままだと一生菅田気付いてくれなさそうだったから」
「…ぐぅの音も出ない」
「ハハッ、だろうな」
実際、つい数分前まで私の使い物にならない勘は、山田から寄せられている好意を一度も察知できなかった。
「あーやっぱりどうしようもなく、菅田が好き」
「うっ…流石にこれ以上好きと言われると恥ずかしいから自重して頂いても宜しいですか」
「好き」
「話聞いてたか!?!?」
「これくらい言わねぇと、菅田は本気で向き合ってくれないだろ」
「……」
「返事は今じゃなくて良い。ただ、覚えておいて欲しい。俺が菅田を好きだってことを」
山田の心臓の音が更に加速するのが分かった。相手が緊張している事が嫌でも伝わる。それから、ちゃんと私を想ってくれているんだなって実感する。
首を軽く捻ってこちらからの返答を待っている山田に対して開口しようとした瞬間だった。
「やーだね。そんなこと、永琉先輩が覚ておく必要なんてないじゃん」
絡まっていた私と山田の視線を絶ち切るかの如く、第三者の図々しい一言が突然その場に投じられた。
「山田さんからの告白なんて…―」
“今すぐ俺がシュレッダーにかけてやりますよ♡”
私の身体を強引に山田から引き剥がしたそいつは、挑発的な台詞を落として山田に向かって、子供っぽいあっかんべーを披露した。
てかおい、何で
ep.31 End