あれ。
あれ、どうして私、こんなに頬を緩めてんの。
テーブルの上に置かれた頬に触れていない方の手が、一回り大きな手にすっぽりと覆われたせいで肩がピクリと跳ねた。私の手重ねられている大きくて温かい手を辿れば、感情の読み取れない山田の顔に到着する。
「やっと自分がどんな表情をしてんのか気付いた?」
「…これは…えっと……何かの間違いで…「間違いじゃねぇよ」」
言葉を遮る低い声。それが吐こうとしている次の台詞を聴くのが恐かったのかもしれない。無意識にゴクリと生唾を呑み込んでいた。
「間違いなんかじゃない…だから許せない」
「山田?」
「平野が菅田にこんな表情をさせてるって考えただけで…」
“すっげー、ムカつく”
そう吐露した相手は、分かり易く不貞腐れた。社会性が極めて低いゴリラ寄りの人間、それ即ち私は、こういう時にどう返事をするのが正解なのか分からなくて空気を濁す様にだし巻き卵を取って頬張った。
ジュワっと出汁が溢れているはずなのに味がしない。
「はぁ…俺、今かなりダサいよな。平野に嫉妬してこの場にいない平野を下げる様な発言したとか…マジダサい」
酔いが回っているのか、お箸から離した手でくしゃりと前髪を潰す様に乱した山田が、言葉を続けて歪な苦笑を浮かばせている。緩んだネクタイと、首元だけ外されている釦から覗く素肌が、ただでさえ色っぽい山田を三割増し艶っぽく見せている。
「全然ダサくなんかないだろ」
味を感じられなかっただし巻き卵を呑み込んだ私が漸く紡いだ言葉に、宙を彷徨っていた山田の双眸が放浪の旅を終えて、再び私の方へと向いた。
社会人歴一応七年。二十八歳のOLなのに気の利いた台詞がまるで思いつかん。
オンラインゲームでは初めましての人間と会話を弾ませられるってのに、ゲーム配信では饒舌だってのに、付き合いの長い山田に大した言葉を掛けてやれない自分がとても情けなかった。
「何処がダサいの?人間なんだから感情が乱れる時もあるじゃん。らしくない時だってあるじゃん。私は山田をダサいと思った事なんて一度もないよ。今だって、ダサい所が見当たらない」
「……」
「安心しろ、私なんて平気で平野のいない場所であいつの文句並べてっから」
「フハッ、それ堂々と言うことかよ」
私の人間として最低品質発言に吹き出して、山田がケテケテと腹を抱えて笑い出した。あ、良かった。いつもの山田だ。
「菅田ってブレないよな」
「そう?」
「ん。いつも想像の斜め上の返事が来る。そんで敵わないなって毎回思う」
「え、褒めてる?貶してる?」
「褒めてる。それもめっちゃ褒めてる」
ビックリだ、全然嬉しくない。こんなに嬉しくない褒め言葉ってあるのかしら。頬を引き攣らせる私に「全然嬉しくねぇとか思ってるだろ?」と図星を突いて更に笑う山田。
こっちが怪訝な顔で冷たく目を細めれば、ひとしきり笑った山田が目尻に浮かんだ涙を指で拭って、いつもみたいに頬杖を突いた。さっきよりも山田の頬の赤みが強くなっている。
高校生か大学生と思われるホールスタッフがそんな山田を指差して、キャッキャッとはしゃいでいるのを視界の端で捕らえた。
「なぁ、菅田」
「なに」
「菅田は自分で思っている以上に、魅力的な人間なんだよ」
「今更機嫌を取っても無駄。無駄無駄無駄」
「DIOじゃん」
「ド悪党じゃねぇか。せめてジョルノ・ジョバーナって言えよ」
ツボにはまってずっと笑っている山田がちょっぴり憎くてビールを煽る。あっという間に空になったジョッキの縁をクルクルと指でなぞりながら、口を開いた。
「DIOなのは不満しかないけど、私で良ければ、仲の良い同期として友達としていつでも酒くらい付き合うから。だから、あんま根詰め過ぎんなよ。山田は良い奴だから心配になる」
頬が熱いのは決して臭い台詞を吐いて恥ずかしいからではない。アルコールのせいだ。華金に浮かれているせいだ。夏が迫っていて暑いせいだ。
火照る顔を手でバタバタと仰ぎつつ山田を一瞥すれば、相手は口許に艶笑を浮かべて私を見つめていた。
「ありがとうな…って言いたいけど、俺は菅田を仲が良い同期とも友達とも思ったことなんてねーよ」
山田が呟いたその一言は、クタクタになったニラが漂うもつ鍋のグツグツと煮える音に溶かされた。
ep.30 End