そういえば、元々頭の可笑しい奴ではあったが、今日の平野はいつにも増して様子が変だった。定時退社をキメる気しかなかった私が、全ての業務を終わらせてオフィスを後にしようとしていた時に、急に私の腕を掴んで平野が制したのだ。
以前ならこういう場面で確実に全身が痒くなったり蕁麻疹が出たりと、平野アレルギーを患っている身体が発作を起こしていたはずなのに、拒絶反応が一切出ない自分に自分が一番吃驚した。
それにしても一体何の用だ。零コンマ一秒でも速く社畜から解き放たれたいと願っているのに何なんだ。そう思ったけれど、それを口にできなかったのは、平野が真剣な表情をしていたからという理由に尽きる。
見つめ合ったまま十五秒くらいの間が空いていた。『Love so sweet』でも流れ始めんのかって程に平野と視線が絡んでいた。
「本当に行くんですか?」
沈黙を破る様にして放たれた言葉に私は眉を顰めて「はぁ?」と漏らす。当たり前帰るに決まってんだろ。タスクが片付いているのにサービス残業する必要なんてないじゃん。
「行かないで」
「……」
「行かないで、永琉先輩」
心なしか、私の手首を掴んでいる平野の手に力が込められた気がした。こいつはこんなに悠長にしている暇なんてないはずだ。次号のsucréで平野が担当している漫画が表紙を飾る事になっているし、物語自体も盛り上がっていて世間でも話題になっている。
だからこの男はここ数日やたらと忙しなく動いていたし、今日だって残業が確定しているのだ。ん?待てよ、まさかこいつ…私を道連れにしようと企ててんのか?
心底ひん曲がった私の思考が辿り着いた結論が、それだった。
はっはーん、これが貴様のやり口か。クソイケメンな顔を有効利用して、残業を私にも手伝わせようって魂胆だな?バレバレだぞ?髙橋編集長を含めたsucré編集部内の人間には効果覿面だとは思うが残念だったな、唯一私にだけは通用しないんだわ。
「平野、残業が泡吹きそうな位しんどいのは分かる。華金なのに残業はドンマイ。だけどその手には乗らないから」
「え?ちょっと待って、何か大きな誤解が生まれている気が…「一つだけ助言するけど、行かないで残業手伝って下さいって可愛く甘える相手を間違えてっから」」
「待って、待って、どうしてそうなるの!?」
「まぁ頑張れ。あんた仕事だけはできるから大丈夫よ」
「だけ!?!?仕事“だけ”って何!?!?予想外の攻撃に心にダメージ負ったんだけど?」
「はいはい、鋼が原材料のあんたの心はこの程度で傷が入る程柔じゃないでしょ。んじゃ、せいぜい残業を愉しんで」
逃げ去るみたいにオフィスを辞したけど、最後に見たあいつはまだ何かを言い足りていない表情を浮かべていた。
げっ、折角の華金だってのに、美味い酒と大好きなもつ鍋を堪能してるってのに、こんな時にまで平野の事を考えるなんて私はつくづくどうかしてる。それもこれもあいつの話を振った山田のせい…「そんな甘い顔すんのやめろよ菅田。」
私の思考回路に割り込んだのは、ジョッキの中で揺れているビールよりもずっと冷たい声だった。伸ばしかけていたお箸の持つ手が自然と止まり、その代わりに私の視線が狙っていただし巻き卵から山田へと移動する。
やがて瞳に映り込んだのは、端麗な顔を仄かに色づかせている相手だった。
「平野のこと考えてただろ」
「……」
「あいつの事を考えて甘い顔すんの、やめろよ」
驚嘆すら漏れなかった。おちょくってんのかよって突っ込めなかったのは、山田の視線が痛い程に真っ直ぐ刺さったせいだ。
高校生の時からこの男を知っているが、こんな山田を見たのは初めてだった。大会が開催される度に表彰台に上がっちゃう程に運動が得意で、それでいて勉強も疎かにせず、誰にでも優しくて、面倒見が兎に角良くて、余裕があって、常に人に慕われている。私の知っている山田はそういう奴だ。
モテ街道まっしぐらで、花男に出て来るF4の良い所だけを凝縮して一人の人間にしたみたいな男で、いかなる時にも隙が無い。人間と霊長類の狭間を奇跡的に人間寄りで生きれている私とは比べ物にならない人物であるという説明はするまでもない。
そんな山田が、私の向かいで、余裕のない顔をしている。
「何言って…「菅田、無意識に蕩ける様な表情してんの、気付いてないっしょ。 」」
こんなにもぶっきらぼうな声を放つ山田も初めてだ。さっきまでずっと持ち上げられていた口角も下がっている。山田の唇は一本の平行な線が引かれたみたいに閉じていて、声は憤りを含んでいる感じだってのに、双眸は悲しそうに揺れている。
流石にゴリラ・ゴリラ・ゴリラとホモ・サピエンスのギリギリで生きている私でも、軽く茶化して終わらせても良い話ではないのだと察した。だがしかし、すぐに返事が出る訳でもなかった。
何せ山田の発言が不服だったからだ。甘い顔?蕩ける様な表情?誰の事を言ってんだよ、そんなはずがないでしょ。私が平野の話をしながら乙女みたいな反応を見せる訳な…い……己に言い聞かせながら自分の頬に触れて驚いた。
私の指先の神経が正しく機能しているのであれば、私の頬はしっかりと緩んでいたからだ。
ep.29 End