全く、この男は一体何処まで優しさでできているのだろうか。もしかしたら母胎で細胞分裂していた時から優しさまで細胞分裂していたのかもしれない。馬鹿馬鹿しい妄想だが、山田なら大いに有り得る。
どの角度からどんな質問が来ても良い様に気を張っていたせいか、意表を突かれた問い掛けに肩の力が抜けていく。二杯目のもつ鍋を受け取った私は、ニラをお箸で摘まみながら髙橋編集長も頬を染めていた山田の顔へ視線を滑らせた。
「案外平気かも」
「え?」
「やっぱり訂正。案外じゃなくて全然平気」
「……」
咄嗟に素直になれない私の口が、案の定、反射的に捻くれた発言をしたから慌てて前言撤回して言い直す。ここに平野がいる訳でもなければ、あいつが私達の会話を聞いている訳でもないのに、わざわざ訂正するなんて時間の無駄だ…そう思えたら楽なのに、この日の私は捻くれた己の言葉を許容できなかった。
結芽に次いで二番目に私という
照れ臭さを隠す為にお酒を煽る私は今年二十八歳を迎えるというのに、笑えるくらいに幼稚だった。
「ムカつくしいけ好かないし腹立たしい…けど、平野とお昼を一緒に過ごす様になって今まで知らなかった一面を現時点で沢山知った」
料理が上手なところ。弁当を盛り付ける才能まであるところ。私が「美味しい」と言うまで緊張して自分の弁当には手を付けないところ。私が「美味しい」と言ったらこの上なく嬉しそうな顔をするところ。わざわざ弁当を届けてくれるところ。チャラチャラしてる癖に手書きでメッセージを残すところ。ふざけている様に見えて仕事に真剣なところ。
今までだって本当は見えていたはずの平野の側面から、私は敢えて目を逸らしてきていたのだろう。この五年間、あいつは鬱陶しいまでに私の傍にいたのに、私はあいつを知ろうとしなかった。
それは一人の社会人として、人間として、そして何より平野の先輩として、あるまじき態度だった。立派な大人なのに、子供みたいに意地を張っていた。
「それに、平野といると昼休憩の間にsucréの表紙デザイン案や、お互いが目を付けている漫画家さんについてや、それぞれが受け持っている担当漫画家先生の連載の展開についてとか、話を効率的に詰められたりするんだよね」
実際、昼休憩の一時間で平野とタスクを幾つか片付けた事もある。平野はあんな感じだけど要領は良いし仕事に関しては私と意見が一致する事が多い。余った時間を新卒三人の教育に回せるようにもなったし、所憚らずぶっちゃけて正直に胸の内を打ち明けると、平野との昼休憩は大変に有意義なのだ。
まぁ、あいつに卑猥写真を撮られた恨みは勿論あるし?私の弱味を握ってそれを乱用するあいつをすぐにでも呪い殺してやりたい気持ちは健在だけど?でも、認めるべき部分はちゃんと認めなくちゃなって心から思う。
ただ、私が友達追加したからって毎日毎日『永琉先輩おはようございます♡』だの『おやすみなさい夢で永琉先輩と会いたいなぁ』だの、不必要極まりないメッセージを送ってくるのだけは余りにも下らなくてスマホをぶん投げたくなるけどな。
平野からの阿呆みたいなメッセージを読んで、何だこいつクソみたいに暇人なんだな。そんな感想を胸中で並べながらも自然と口許は緩んでしまう私がいる。
実をいうと、今週は平野と一度もお昼を一緒にしなかった。そんな事は初めてだった。平野が同伴していた取材が本来、月曜日で終わるはずの予定だったのだが、水曜日まで延びて、木曜日は私が担当している漫画家先生に呼ばれて不在だった。そして今日は平野が参加していた違う部署との会議が長引いて昼休憩の時間がズレた。
私も平野もsucré編集部内ではそこそこ多忙だから、寧ろ今までちゃんと一緒に過ごせていた事の方が奇跡に近い。あいつが耳を塞ぎたくなるまでにやかましいからなのだと言い聞かせていたが、平野のいない昼休憩のいつもの指定席には沈黙が漂っていて、それがちょっぴりだけ虚しく感じた。
ほぼ平野と会わない一週間を終えたのだが、平野は私が外に出ている日以外は全て手作りの弁当を用意してくれた。あの男に栄養管理をされる様になってから、肌の治安が非常に良くなっている。落ちる一方だった体重も2kg増えた。いかに自分が身体に悪い食生活をしていたのか
お互いのスケジュールが見事に擦れ違ったこの五日間だったけれど、あいつと会ってない気がしなかったのは、先にも述べたが十中八九あの男からドン引きする量のメッセージが届いたからだ。
『永琉先輩不足で死にそうなので、平野頑張れって言ってください』
『あ、できればそのまま翔好きだよって言って頂けると幸いです』
私がどれだけ無視しても、あいつからのメッセージ受信は止まらなかった。
『今日も永琉先輩に会えそうにないです😢俺に会えなくて先輩病んでませんか?罪な男でゴメンネ(´・ω・`) 』
『取材が……水曜日まで……延びるのが決定しました……え?平野愛してるって?そんな照れます~」
火曜日の夕方辺りから、どうやらあいつには幻聴が聞こえ始めたらしかった。
『俺が出社した日に限って何で永琉先輩いないの!?!?俺、うさぎと同じなんですよ!?!?寂しかったら死ぬんですよ!?!?』
『🐰🐰平野寂しいぴょん🐰🐰』
私が勇者の如く既読無視を貫いていたからだろうか、木曜日、あいつはわざわざ私の仕事用のメールアドレス宛に阿呆みたいな文章を送り始めた。
因みに今日に関しては、会議に赴く寸前の平野に穴が開く程凝視された。舐め回す様に見られた気分はしっかり不快だったし、仕事がやりづらいったらなかった。限界を迎えた私が平野の目を手で覆い隠せば「もう永琉先輩ってば、オフィスでこんな過激なスキンシップはやめて下さい恥ずかしい」と言ってニヤついていた。
もういよいよ、あいつは何らかの病に冒されていると思われるので、そろそろ良い心療内科を調べて紹介する事を検討中だ。
ep.28 End