平野に脅されて泣く泣くあいつとお昼を食べる様になってから、初めて独りでの昼休みを迎えた。いつもの指定席、刺したストローでアイスコーヒーを吸引する。
窓硝子を雨が叩き付ける音が響いている。山田のくれた情報通り、夜までずっと降りそうだ。
「いただきます」
自分だけの声がテーブルに溶けて、スプーンでタコライスを掬った。最早当然と言うべきなのかもしれないが、舌に乗ったそれは美味しかった。
どうして私がタコライスを好きだとあいつが知っているのだろうか。不意にそんな疑問が頭に浮かんだ。こっちが頼んでもないのに平野は毎日弁当を作って来る。料理なんて女に作って貰えば良いとか思ってそうだなと感じていたせいか、私は見事に意表を突かれる形になった。
しかもいつも私が「美味しい」と感想を言うまで、あいつは自分の弁当に手を付けない。私が「美味しい」と漏らすまで、あの男が珍しく緊張している表情を見せるのだ。
そして私がバリエーションのないたった一言の感想を告げれば、とろりとチョコレートが蕩けるみたいに甘い笑みを添えてやっと自分の食事を始める。
未だに、あの男が弱味を握ってまで私とお昼を食べたがる理由は不明なままだ。
「ムカつくけど、平野がいない事に違和感を覚えるな」
こんなに大雨だけどあいつが同行している取材は順調に進んでいるんかな。なんて、折角平野のいない休みなのに平野の事を考えてしまっている。
新人じゃあるまいし、大丈夫に決まってんだろ。自分にそう言い聞かせて苦笑を滲ませた。
こっちが目の下に濃い隈を作って、ユンケルと眠眠打破の二刀流でどうにか乗り越えられる山場でも、平野はそつなくこなしてしまう。奴の余裕綽々としている感じがより一層こちらの生理的な嫌悪感を煽って来たのは言うまでもない。
平野が私の後輩になって五年。あいつを恐らく誰よりも近くで見て来たけれど、私は平野 翔という人間を知っている様で全然知らなかったらしい。だって、あいつがこんなに料理が上手なんて知らなかった。
あいつがわざわざ弁当だけを届けに会社に来る優しさを持っている人間だなんて知らなかった。手描きのメッセージを書き残す様な人間だなんて、知らなかった。
クソッ、折角平野のいない昼休みだってのに。心置きなく羽を伸ばして愛おしいゲームができるってのに。さっきから私の脳は平野の事ばかり考えている。
これじゃあ『愛情込めて作った永琉先輩の好きなタコライス食べて俺に想いを馳せて下さいね♡』そう書かれていたあいつのメッセージに従ってるみたいじゃんか。
「本当腹立つ平野のアーホ…っ…」
底の見え始めたデイジー柄の弁当箱へ視線を滑らせた私の声が、最後まで言葉を言わぬまま途切れて消えた。弁当箱の底に丁寧に敷かれたサランラップ越しに、隠れていたらしいハート型のメモ用紙が顔を覗かせていたからだ。
『いつもお疲れ様です、俺の好きな永琉先輩』
そこには、おふざけなしの平野の文字が羅列していた。
「こんなの、反則じゃん。」
心臓が激しく揺さぶられる感覚に犯される。熱を孕んだ頬は、間違いなく紅潮していると思われた。
平野は、狡い。私から見た平野はいつだってふざけてばかりで、どれが本気でどれが冗談なのか分からない言動しかしない男だ。だからこそ、こんな馬鹿正直に綴られた字に動揺してしまう。ふざけてもいないし冗談でもないと分かるからこそ、スプーンの先が触れている短い一文に自分の動悸が速くなる。
まだふざけてくれていた方がマシだっただろう。まだ冗談を書いてくれていた方が己を保てていただろう。そうしたら普段通りに悪態の一つや二つ付けられたのに。そうしたらいつもと同じように毒を吐けたのに。
それなのに、狡い平野が私の調子を掻き乱す。
こんな風にドクンドクンと胸を高鳴らせるなんて、私らしくない。恥じらうように顔を火照らせるなんて、私らしくない。全然、私らしくない。
「ふざけんな、こんなの…」
ねぇ、平野。お願いだから、これ以上私を揺さぶらないで。これ以上、私に意外な一面を披露しないで。これ以上、私を
もう本当にこれ以上は駄目だ。これ以上掻き乱されると私はきっと……。
「こんなのチートだろ、馬鹿。」
自分が自分じゃなくなってしまう。
あんたの前で、先輩の菅田 永琉になれなくなってしまいそうで怖い。性格が歪んでいて、唯一の後輩だったあんたを煙たがって、あんたのふざけたアピールに棘のある言葉を返す…そんな私が崩れてしまいそうで怖い。どうしようもなく、怖い。
『タコライス、美味しかった。ごちそうさま』
平野との会話画面で初めて右から吹き出しが付いた。友達追加するつもりなんて更々なかったのに、新しい友達の欄に『平野 翔』の名前が追加されている。すぐに既読の字が私の投げた文の横に付いて慌てふためいた。
『初めて永琉先輩からメッセージ貰った記念にスクリーンショット撮っちゃった🥺』
『あ!だから今日は雷雨なんですね!』
私がアプリを閉じるよりも先に届いた返信に、「バーカ」その場で声を漏らした私の口許は緩んでいた。
飄々としていて掴みどころがなくて仕事をそつなくクソイケメンな平野 翔が生理的に嫌い。
この五年間、決して変わる事の無かった私のその信念にこの日、確かに綻びが生じ始めた。
ep.26 End