手を伸ばして山田の額にくっ付けた。傘と傘の狭間に飛び出た腕に雨が降り注ぐからすぐに引っこめれば、後を追う様にして私の方へと山田の目線が流れた。漸くこちらに向けられた相手の顔は酷く驚いている様子だった。
「え、急にどうした?」
「いや、熱あんのかなって思って」
「全然元気だけど」
「だって、私と平野が付き合ってるのか訊いてくるなんて山田らしくないじゃん。社畜し過ぎてとうとう脳味噌が沸騰したんじゃないかってガチで懸念した」
「フハッ、何だよそれ、社畜なのは菅田も同じだろ」
「間違いない」
「で、結局のところどうなの?菅田と平野は付き合ってねぇの?」
「当たり前でしょ、訊くまでもないから。ちょっと諸事情があってあいつと昼休憩一緒に取ってるだけ」
「そっか、それ聞いて安心した」
「てか山田は私が平野を嫌ってんの知ってんじゃん」
「知ってるけどさ、菅田の口からちゃんと聴きたかった」
「何で?」
「何でも」
ふふっと声を零した山田は目を細めているけれど、相手が突然ご機嫌な様子になった意味が分からなくて私は訝しげに相手の端整な顔へ双眸を伸ばす。
変な奴。ガチで仕事し過ぎて思考回路がショートしてんじゃないの。
水浸しになったアスファルトには私と山田が並んでいる光景が反射して映っている。頬をひと撫でして通り過ぎて行く風には当たり前に湿気を孕んでいて、実に不快だった。
「呑みに行く約束」
「え?」
「弁当のお礼に俺と呑みに行ってくれるっていう約束、覚えてる?」
「ん、もち。ちゃんと覚えてる。女に二言はないから」
「アハハッ、それ言うなら男に二言はないだろ。sucré編集部に新卒三人も配属されたから忙しいだろうなって思って五月に誘うの遠慮してたけど、少しは落ち着いた?」
「どうにかこうにかって感じ。新卒が三人なんてsucré史上初らしいから先輩も編集長も分かり易くあたふたしてたけど、結局私が一人の子の教育係を受け持って、平野も一人受け持って、んで残りの一人は他のメンバーが育てるって決まってからは、乱れまくってた仕事の進捗も落ち着いたかな」
「菅田も大変だな」
「直属の後輩にクソ生意気な奴がいるから、あいつに比べたら今年の新卒の子はお利口さん過ぎて全然苦じゃない。広報部も新卒対応でこの時期は毎年忙しいんじゃない?」
「あーうちはもう完全に新卒の教育カリキュラムができてるから、三年目の後輩が教育係として頑張ってる。俺は去年から教育係卒業してる」
「大御所は組織もちゃんとしてんのな。…羨ましい、同期とはとても思えん」
廃刊寸前だったsucré編集部なんて、マニュアルすら存在してない。山田の話を聞いてると、私と山田が本当に同じ会社に勤務しているのか疑わしくなってきた。
大手出版社とは名ばかりの、社員すらも認知していない割合の方が圧倒的に多いであろう
だって、やっとできた後輩もあの世の中を舐め腐っている平野だし。もう完全に貧乏神に愛されているとしか思えない。
「じゃあ今週金曜日の仕事終わりとか、どう?」
「締め切りも会議もないし、多分定時で帰れる」
「マジ?なら今週金曜日の仕事終わりに呑みに行こうぜ」
「良いよ、何処にする?山田と私と言えばもつ鍋じゃない?」
「流石菅田。俺ももつ鍋提案しようとしてた。去年上司に連れてって貰った店のもつ鍋美味かったからそこ予約しとくわ」
「お、さんきゅー」
他愛の無い会話のラリーを繰り返している内に、あっという間に目前に会社のビルが現れた。このビルが視界に入るだけで胃が痛くなる。望みは限りなく薄かったがやはり今日も爆発しないでしっかり聳え立っている。
駅から七分ぽっちの距離だというのに、山田から借りた傘はすっかりぐしょぐしょになっている。ハイヒールが撥水性の素材だったのが唯一の救いだ。
屋根のあるエントランス前で傘を折ってバサバサと付着している水滴をしっかり飛ばして折り畳む。「山田、傘ありがとうマジ助かった」釦を留めてすっかりコンパクトサイズになったそれを隣にいる男に差し出せば、相手が首を横に振った。
「持ってろよ。今日は一日中雨予報だし、夕方から夜にかけて豪雨らしいから、その傘、帰りも使えば良いじゃん」
「うわ、ちゃんとした大人だ。眩しい」
「ハハッ、何だそれ」
「いやこっちの話だから気にしないで。でも山田に借りばっかり作って何か悪いわ。山田への借りを金に換算すると高校生の時からだから普通に億超えると思う」
「気にすんな。俺が好きで菅田にお節介してるだけだし。それに……」
「それに?」
自分の傘を几帳面に折り畳み終えた山田と目が合って、相手の続きの言葉が気になった私は首を捻る。だけど台詞の続きよりも先に届いたのは、山田が伸ばした手だった。
アイロンでストレートにしたってのに、湿気で秒殺された私の髪をクシャクシャと撫でた山田が爽やかに、はにかんだ。
「菅田にその傘を貸すのは、また菅田に会う為の口実だから」
「……」
「そしたら、菅田が俺に傘を返す時に必然的に会えるじゃん?」
“だから菅田は、その傘持ってて”
山田の柔らかくてさっぱりとした良い香りが鼻孔を掠めた。口許に弧を描いた山田は「そんじゃお互い、社畜頑張ろうな」置き土産の様にその台詞を残して、IDパスをエレベーターのボタン下に翳したのだった。
ep.23 End