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ep.21確信犯な男④


 朝起きて眠たい目を擦る。溜まっているタスク…メッセージに返信をしてからベッドを抜け出す。枕元には寝落ちする寸前までしていたゲーム機があり、それを充電する任務だけは忘れてはならない。


 私の日常を見ている人間ならば大方お察ししているとは思うが、私はちゃんとした人間ではない。まぁ、何を以てちゃんとしていると認定できるかと問われれば明確に答えられないが、兎に角ちゃんとはしていない。



 そんな私がベッドメイキングをするのは、母親が割とマナーや礼儀に煩かった影響だと思う。被っていた掛け布団を綺麗に伸ばして、シーツの皺を払った後は、時間との勝負だ。


 洗顔、歯磨き、着替え、コップ一杯の水を飲み、年々短くなっている化粧を十五分で済ませ、その間にコーヒーも飲む。最後に髪を梳いてヘアアイロンで寝癖を直せば準備完了。仕事用の鞄を肩に掛けて、独り暮らしをしている一室を出発する。


 行き先は勿論、勤務先の出版社だ。因みに私は真面目な人間でもないので、毎日ちゃんと「仕事に行きたくないな」と独り言を零しているし、会社爆発しないかなと最低な願望を毎日抱いている。



「げ、雨降ってるとかダルッ」



 マンションのエントランスを抜けて外に出た途端、頬を叩いた冷たい雫に怪訝な表情を浮かべながら空を仰げば、太陽も青空も覆い隠す厚い雲が広がっていた。傘は家の玄関にある。しかもあの傘を使った回数は片指で足りる程度だ。


 社会人になって六年目なのに、未だに天気予報をチェックして家を出る習慣が身に付かない。ほらね、自慢じゃないけど私ってちゃんとしてないでしょう?



 引き返して傘を取りに戻るなんていう時間の余裕はないので、どうか本降りになりませんようにと全力祈願してから駅まで急ぐ。傘を広げて歩いているOLやサラリーマンを何人か追い越して改札を潜り、すっかり親しみを覚える様になった駅のホームで電車を待つ。


 一番激しい通勤ラッシュには被っていないからか、ホームにいる社会人は疎らだ。そして殆どが毎日見る顔触れだ。


 いつの間にか成人を迎えて、いつの間にか社会人になって、いつの間にか社会人歴を積んでいた。成人を迎えた時なんて社会の事なんざ右も左も分からないひよっこなのにこれが大人だと?納税できる気がしねぇぞ?労働できる自信なんてねぇぞ?って思っていたのに、案外すんなりと学生から社会人に移行できた。



 社会人になりたての頃も毎日毎日スーツ着ての新人研修にメンタルが死にかけて、浮腫み散らかした足を引き摺りながらゾンビの様に帰宅するのが常だったから、こんな毎日続けてたら死ぬ。明日こそ辞めてやる。そんなマイナスな事ばっかり考えてたけど、今では意外と社会人生活を送れている。



 水道光熱費及び家賃も滞納した事はないし、ゴミ出しもできているし、僅かながら貯金もしている。殆どの社会人からするとそんなの当たり前だと鼻で笑われそうだが、私からすると一応自立できている今の自分はかなり奇跡に近い。



「天気悪くなーい?折角巻いた髪が崩れるんだけど」

「それな。でも仕方ないじゃん、梅雨入りしたってママが言ってた」

「そっか、もう六月だもんねー」



 私の後ろを通り過ぎて行く制服を纏った女子高生の会話の盗み聞きを通して、天気が悪い原因を知った私はやはりちゃんとした人間ではない。手に持っていたスマホへ視線を落とせば、ホーム画面に表示されている時刻の下に「6月1日月曜日」と今日の日付けがしっかりと表示されていた。


 見ず知らずの女子高生の彼女も言っていたがもう六月なのか…sucré編集部に新入社員三名が加入してから一ヶ月が経とうとしているのか…という事は、私と平野が一緒に昼休みを過ごす様になってからもあと数日で一ヶ月になるのか!?!?



 信じられない現実に目を見開いた刹那、手の中のスマホが振動した。結芽からの着信だった。私は素直に顔を顰めた。


 何故ならこいつは、昨日のゲームの約束をちょんぼした犯人だからである。何度も電話しても繋がらなかった癖に、何で月曜日の朝っぱらから電話を寄越す余裕があるんだよ。


 どうせ下らん内容だろうなとは思いつつもマブダチの連絡を無下にはできず、仕方なく着信に応じてスマホを耳にあてた瞬間だった。



「もしも…「永琉ぅぅううううう!!!!!ノラ君が…っ…ノラ君が辞めちゃったぁあああああ!!!!」」」



 スマホ越しに鼓膜を突き刺したのは、結芽の涙に濡れた声だった。


 は?



 鬼気迫る雰囲気に圧倒された私が結芽の言葉を理解するまでに数秒を要した。そして理解する頃には「あ、電車来たから切るね。続きはLINEする」そう言われ一方的に通話を終了された。


 何じゃこいつ。私が暇だとでも思っとんのか。今に始まった事ではないが、いつになく自由気ままに人を振り回す親友に不満を覚える。



『ノラ君が辞めちゃった(号泣)』

『聞いた』

『もう生きていけない』

『推しとのお別れの時、毎回同じこと言ってんじゃん』



 ポツポツ落ちていた雨が段々と強さを増して激しく地面を叩き出した。屋根のない部分のタイルが瞬く間に濡れていく様を見守っていると、結芽から墓のスタンプが送られてきた。



『何で辞めるのって訊いたの』

『うん』

『そしたら…そしたら…』

『早く言え』

『片想いしてる相手がいるから辞めるって言われた…しかもその時のノラ君めっちゃ美しかった…私には見せた事ない笑顔見せてた…死…』



「え…」



 軽快に返信の文を打っていた指が結芽からのメッセージでぴたりと止まった。黒い雲から遠慮なしに落ちる雨。それに打たれながら勢いよくホームに入って来た電車の扉が、アナウンス音を流しながら目前で開いた。


 人の波に呑まれるがまま乗車して、偶然空いた席に腰を下ろす。すぐに扉が閉まり電車がホームを後にする。車窓から流れる景色は、窓に張り付いた雨粒のせいで濁っていてよく見えなかった。



『ずっと好きな人がいて事情があってこの仕事してたけど、もうやる必要がなくなったから辞めるんだって😭てかノラ君に片想いさせてる奴どんな女なん?前世どんだけの偉業残したん?』



 空模様並みに荒れている親友からの新着メッセージを読んだ私は簡潔に『ドンマイ』と返事を送って、スマホの画面を暗くした。不意にそこに映り込んだ自分は若干頬が緩んでいる様に見えて慌てて自分の頬を抓る。普通に痛い。



 だけどそうでもしないと、柄にもなくにやけてしまいそうな気がしてならなかった。



ep.21 End




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