「せーんぱい!お昼行きましょー」
「は?普通に嫌……「え〜良いんですか?」」
艶のある声が耳元で落ちたと同時に、私の目前に現れた己の卑猥画像に嘔気を催した。
あっという間に顔色を悪くするこちらとは対照的に、卑猥画像の所有者は麗しき顔にニヒルな微笑を貼り付けている。そんな平野に嘔気が増す。この確信犯め。
以前までは待ち遠しくて堪らなかったはずの昼休みが、よもや地獄にしか感じられない。
何処にもぶん投げられない憤りを抑える様に用もないDeleteキーを連打しながら、無理矢理口角を持ち上げた。
「ソウダネー!オ昼ニシヨッカ」
「ふふっ、はーい!今日は永琉先輩の好きなパン屋さんのバケットで生ハムのバインミーを作りましたー。さぁ、早く行きましょ〜永琉先輩」
痛い。グサグサと容赦なく突き刺さる視線が非常に痛い。
「今日で一週間よ」
「あの永琉ちゃんと平野君が、一緒にお昼を食べてるなんて未だに信じられないわ」
「もしや遂に私達の推しカプがくっついたのかしら?」
「何それ尊い〜!!!」
sucré編集部オフィスは、本日も大変に賑やかである。
先輩方が編集長席に集まって、髙橋編集長までも一丸となって、こちらへ視線を注ぎながらコソコソ話にしてはかなりの大音量でキャッキャと盛り上がっているではないか。
よくよく目を凝らして見ると、新入社員の子達までもがデカデカ話に参加している。
随分と楽しそうだなおい。ていうかいつの間に新入社員の子達もあちら側の人間になったんだよ。隙あらば平野とお昼を一緒にしようとしてなかったか!?!?
「永琉先輩とお昼行ってきまーす」
渋々己のデスクから離れて立ち上がった私の傍で、sucré編集部のメンバーに向かってヒラヒラとお手振りをしている平野に、私を除く全員が頬を染めて甘い表情で「行ってらっしゃーい」と口を揃える。
涙が出そうなまでにアウェーである。ここはもう完全にこの男の独壇場と化している。
業務においてはまるで顔を覗かせてくれない一体感を、皆ここぞとばかりに遺憾なく発揮している。
「せんぱーい、行きますよー」
「分かってる」
「ふふっ、大好きな永琉先輩とお昼食べられるの幸せ」
あっそ、私は最高に不幸だよ。因みに私はやっぱりあんたが嫌いだよ。なんて、何も考えずに毒を吐けていた頃が懐かしく感じてくる。
嬉々とした表情を崩さずに、私の腕に自らの腕を絡めた平野に引き摺られるがまま、sucré編集部を後にした。
人のいない窓際のテーブル席。それ即ち私のお昼休みの指定席。フランスパンを齧って咀嚼する私の向かいで頬杖を突いて目を細めているのは、憎き後輩平野 ノラ…あ、間違えた平野 翔。
悔しいけどめちゃくちゃ美味い。何だこのバインミー。生ハムだけじゃなくてアボカドもトマトも玉葱もレタスもクリームチーズもバジルソースまでも全部が私の好物だ。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……お、美味しい」
「ホントですか!?!?」
「近い、離れろ」
「良かった〜嬉しいです。それじゃあ俺もいただきまーす」
ミシュランガイドでもなければ食べログでもないというのに。出版社に勤務するしがない編集者である私からの「美味しい」だってのに。平野はさも何かしらの最優秀賞でも受賞したかの様な喜びを隠す事なく表に出す。
ニッコニコで手を合わせて、やっと自分の分のバインミーに齧り付いた平野を眺めながら思った。調子が狂うな…と。
バジルソースの爽やかな香りの狭間に感じる平野の甘いそれは、人生最大の汚点になったあの日、あのラブホのあのベッドで、胸焼けする位に嗅いだ香りだ。
弱みを握られた。それも生理的に嫌いな人間に握られた。これまで平野に対して親切にした記憶がこれっぽちもないだけに、私は平野からどんな要求を出されるかヒヤヒヤした。
まずパシリはほぼ確だと思い、こいつのパシリになるくらいなら異動願い出してやると思考を展開させ、そうなったらお前を呪い殺すまで意地でも会社を辞めてやらねぇからなと、捻くれ過ぎて複雑な知恵の輪みたいになった結論を固めた。
「先輩、この写真バラ撒かれたくなかったら、俺と毎日お昼を一緒に食べて下さいね?」
それなのに、いざ平野の口から提示された条件は、実に拍子抜けする内容だった。
え?
ん?
は?
三つの疑問符が浮いた後、「そ、それだけ?」私はそう漏らして無意味なまでに瞬きを繰り返した。
恐らくあの時の私はコメディ漫画の登場人物さながらに目ん玉が飛び出ていた事だろう。
「これでもう昼休みは俺から逃げられないんで、覚悟して下さいね永琉先輩」
「え!?あんたマジでそれだけの為に私の弱み握ったわけ!?」
俄には信じられない現実に戦慄する私の手首を拘束する様に掴んだ
ep.19 End