まーーーーた酔狂な事を言っておるよ。ここがオフィスならそう思ってやれやれと両手を挙げて首を横に振れたかもしれない。だけど私がいるのは夜の歓楽街と隣接しているラブホ街に佇むメルヘンなラブホテルの一室。もっと言えばベッドの上。
ついさっきまでは目が痛くなるだけの豪華絢爛な内装を見渡す暇もあったというのに…只今、絶賛私の視界を独占しているのはノラ君こと、平野 翔だけである。
「先輩はいつも無防備が過ぎるんですよ」
「あんたずっと何言ってんの」
「俺は後輩である前に独りの男ですよ?つまりは、情欲に簡単に流される獣なんです」
「馬鹿じゃないの」
「そうですね、俺って馬鹿かも。こんなにも後先考えずに行動したのは生まれて初めてだし、形振り構わず必死になったのも初めてだし?だけどね、先輩」
“俺をここまで馬鹿にさせのは、永琉先輩なんですよ”
鬱陶しいったらありゃしない。こうやって甘ったるく囁くのを真っ先にやめて欲しい。それで以って、不覚とはいえこいつの糖度の高い囁きに高鳴っている己の心臓をすぐにでも止めてやりたい。
こいつにドキドキするくらいなら、私の名誉の為にも死んだ方がマシだ。
そもそも勝手に私のせいにすんな。私は一社会人として大人な対応をきっちりとしてきたつもりだ。そりゃあ私も人間なので?たまに嫌いだなこいつ。心底大嫌いだなこいつ。って感情を顔に出した時もあったかもしれないけれども?兎に角、平野に好かれる様な言動だけはしていないと断言できる。
神にも誓えるし、ゲームデータを賭けても良い。
次から次へと不平不満が胸中で溢れるが、それを口するのは憚られた。平野の顔がいつになく深刻だったからだ。
「んっ…ちょっと、触んないで…「黙って」」
「黙って」じゃねぇよ。ここで黙ったらオメェの告白を受けたも同然になっちまうだろうが。寧ろこの急展開においてまだ冷静に話せる私を褒め称えてくれよ。
平野の手が触れた部分だけがジリジリと火傷してしまいそうな程に熱い。乱れていない方のブラ紐が肩へとズラされて、己の胸元が開店ガラガラ。柄にもないけれど、心の底にはこの絶体絶命な状況に怯えている自分がいたのだろう。
自らの唇から漏れる息が震えていた。
相手のクソイケメンな顔が近づいて、そのまま自分の首に埋められそうだった。自分の身体の危機が迫っているというのに、私にできたのはギュッと強く目を瞑る事くらいだけだった。実に情けない。
しかし、待てど暮らせど平野の高い体温が自分の肌に伝わない。ただただ平野の色気しか感じない香りが鼻を通り抜けるばかりだ。
だからといって、この瞼を持ち上げる勇気もない。とりあえず重量挙げかな?と思う位に瞼が重い。静寂という名の沈黙が、嫌な雰囲気を煽りに煽っていた。そんな中だった。
カシャカシャカシャカシャカシャ。目を伏せても尚、はっきりと分かる眩しさに襲われたと同時に、シャッター音が連続で鳴り響いて沈黙を掻き消した。
…。
……。
………。
…………。
カシャカシャカシャカシャカシャ?おい?ちょっと待て?今以上の身の危険を感じる事はないと考えていたがどうやら私の思考が甘かったらしい。言葉にならないまでの危機感に突き動かされるがままどうにか瞼を持ち上げる。
シャンデリアの灯りに早速目潰しを喰らいながらも状況把握に勤しめば、はっきりとしてきた視界が捕らえたのは私にミラーレス一眼レフカメラを向けている平野の姿だった。
「うわ最悪かよ、まさかでしょ…」
何の説明も受けていないが、忌まわしき後輩の思惑を理解してしまった私の口を突いて出たのは怠さマックスの声。
こいつに押し倒された時よりも、服を脱がされた時よりも、額に口付けされた時よりも、冷や汗が噴き出して顎を伝いポタリと胸に落ちて雫を作る。カメラ越しにある平野の口許が美しい三日月を作って「そのまさかですねぇ」と漏らした。新手の全裸監督かよ。
「永琉先輩がラブホのベッドで乱れている写真ゲット~」
「……」
「ねぇ、永琉先輩。こんな厭らしい写真、会社でばら撒かれたくなんかないですよねぇ?」
「……」
カメラを下ろしてピッピッと手慣れた様子で機械を操作をした相手が、液晶画面に映し出した需要の無い私の淫らなグラビアショットを披露した。そこには、どう頑張って見ても情事を致している最中かの様な私の姿がきっかりと収められていて、漫画でよくあるあの描写さながら、口から魂が抜けそうになった。
誰だよこんな性格捻じ曲がってる人間を採用したのは。
かつてない屈辱感を前に私は下唇を思い切り噛み締めた。まず一つ目の屈辱は、この男に組み敷かれた事。二つ目はこの男に服を脱がされた事。三つ目はこの男に抱かれるなんて想像を少しでも膨らませてしまった事。そして四つ目が平野に弱味を握られてしまった事。
屈辱だらけだ。一生分の屈辱を味わった気分だが、まだギリギリで二十代を生きている私の人生の先は恐らく長い。それなのに現時点でかなり詰んでいる。
「…何してんの」
「何って、大好きな永琉先輩が風邪引いたりしたら大変だから乱れた服を直してます」
誰のせいで求められてもいない肌を出血大サービスしたと思ってんだ。随分と他人事だな?あん?おん?
沸々と湧く憤りは煮えたぎっているが、理性で蓋をしてゴックンと呑み込んで、私のシャツの釦を留めている平野の手を払って「自分で直せるから」と小さく零す。
深くて長い溜め息を吐き出して鋭い眼光で平野を一瞥したが、「永琉先輩と目が合ったぁ。嬉しい~」という実に平和ボケした感想を吐かれて余計に苛立ちを覚えた。
どうやらこいつには私を犯すつもりは本当に更々ないらしい。四捨五入したら男と弟に揶揄される私だが、一応自分の身体は大切だ。だからこそ、平野に犯されなくて良かったという安堵感がこの状況において唯一の救いだった。
正直ちょっと…いや、かなり恐かった。今から平野に無理矢理抱かれてしまうのかもしれないと思った途端、身体に力は入らなかったし、動悸は激しくなったし、脂汗が止まらなかった。
嗚呼、私は、ちゃんと紛れもない女なんだ。そんな当たり前の事を思い知らされた。
ブラ紐を戻してブラウスの釦を上まできっちりと留め、胸元のリボンタイを結ぶ。キル系のゲーム内で銃弾や薬草が落ちているみたいに、都合よく麻酔銃とか落ちてたりしないかな。
あったら飛びついて平野目掛けてぶっ放ち、あいつが気絶した隙に私のおどろおどろしいグラビアショットを削除できるのにな。
「十枚以上は写真撮ったので消すなんて無理ですからね、せーんぱい♡」
「人の思考勝手に読むな。ていうかお前もさっさと服着直せ」
「もーう、肌を見せ合った仲なのに相変わらず冷たーい」
「いかがわしい言い方やめなさいよ、誤解しか生まないんだから」
「既成事実があるので大丈夫です」
身体を拘束していた重みが消えたのを機に上体を起こした私の目前に突き付けられたカメラの液晶画面。そこに映し出されているのは無論、平野 翔によって捏造された既成事実を裏付けるピクチャー。
なーにが既成事実だよ。お前の完全な計画的犯行だろうが。
「……分かったからもうその写真見せてくんな、気色悪い」
心の中で中指を立てながら視線を逸らした私の耳を「えー?何言ってるんですか」そんな一言に掠められ、私の視線は再び平野の顔へと投げられた。
どんなカラコンを以てしても表現できない平野の瞳。色素が淡く、透明度が高いそれは、橋本環奈と肩を並べられる程に綺麗で人の目を惹きつける。
「先輩の言葉が心底疑問」そんな文字を貼り付けている平野は、首をコテンと横に倒して開口した。
「世界一綺麗ですよ」
「……」
「気色悪い部分なんて一つもないので訂正して下さい。この写真の永琉先輩も、実物の永琉先輩も、俺からすれば世界一綺麗です」
「…っっ」
いつもみたいなふざけた様子を微塵も出さないなんて、反則でしかなかった。
ついでに言うと、「訂正して下さいって何様だよ」そう言い返すHPもなかった。
「あ、先輩のほっぺた赤くなってる」
「うるさい黙れ」
先輩と後輩。それ以上の肩書きなんて御免だったというのに、この日、私と平野の間には新たに一つ名前のない肩書きが増えた気がした。
ep.18 End