自分の身に起こった悲劇を理解するのに五秒。そしてその悲劇が夢なのではないか…いや、どうか夢でありますようにと願うのに五秒。合計十秒の時間を無駄にした
我を取り戻したものの時すでに遅しな感じは否めない。何故ならもうすっかりブラウスの全ての釦が外れて前が
「ちょっ…ちょっと、あんた何やってんの」
「何って?ヤる事は一つに決まってるじゃないですか」
「私は今日ここにゲームをしに来ただけだし」
「先輩、何処をどうシテ欲しいですか?」
「……」
会話という名のキャッチボールをするのにこんなに苦労したのはお前が初めてだよ。何で毎回毎回急に人の話無視してテメェの話押し付けてくるんだよ。たまにはこっちに耳を傾けろ。
アンケートで届く読者からの声は一つ残らず拾っているんだからできるだろ。
「えーまさか、遠慮とかしてますか?」
「……」
「心配しないで下さい。俺、上手ですから」
訊いてねぇよ。あんたの上手い下手なんて鼻糞レベルでどうでも良いし、興味もないし、何なら骨壺に入るまで知らなくても良い情報だったわ。
ゲームやり過ぎて眼精疲労で死にそうになっている時以上に頭が痛い。シャンデリアが眩しいせいだと言い聞かせたいところだが、頭痛の原因は十中八九この今だけは「ノラ」と名乗っているこの男にある。
だってこいつがこの部屋に現れるまでの私の身体は頗る良好だったのだから。
「まずは一緒にシャワー入るのが基本なんですけど、どうします?」
「汗流したいんなら一人でやれば?私はゲームするから…「あは、そう言うと思ってましたぁ」」
首を横に折ってふにゃりとだらしなく口許を緩める平野を瞳に映しているだけで、私の額に浮いている青筋の何本かが今にも裂けそうだ。もしくは爆発しそうだ。
そして貴様はいつの間に服を脱いだんだ!?!?ずっと睨み付けていたつもりだったのにどうして気付けば半裸になっている!?!?どんなマジック使ったんだよ。そして素肌まで肌理細かくてツルツルなの何なん。前世でどれだけ偉大な功績を残したわけよ。
現世では私に迷惑しか掛けてないから地獄行き決定だな。もしもこんな男が天国に行く様な間違いがあれば、閻魔大王に直談判してやる。例え私諸共地獄に堕ちる事になっても、平野だけは地獄に引き摺り下ろしてやる。
私達の仕事はデスクワークでそこまで肉体労働ではないはずなのに、平野の身体には無駄な脂肪と思われる存在が一切見当たらない。会社にいる男連中は歳を重ねれば重ねる程に横幅の成長期がお盛んになるのに、平野の身体はだらしないどころか腹が薄っすらシックスパックに割れている。
そりゃあまぁ、こういう副業をしているなら身体に気を遣うのは当然なのかもしれないが、こいつに関してだけは何の努力もしないでこのボディーを手に入れいる気がしてならない。
「平野」
「ここではノラ君なんですけど、永琉先輩は特別に平野って呼んでも良いですよ」
「じゃあノラ」
「え、呼び捨て?」
「いい加減にしなさいよ、これ以上ふざける様だったら本気で怒るから」
こいつに特別なんて言葉を使われると背筋が寒くなるし鳥肌が立って仕方がない。そもそも常に上から目線なのが腹立たしいし、どうもこいつの掌の上で自分が踊らされている様な気がして酷く不愉快だ。
さっさとこいつの意表を突いて掌の上から華麗に降り立ちたいのだが、この男の掌のど真ん中から一歩も動けていない自分がいる。
放った忠告は、私の中で最終通達のつもりだった。それなのに、平野はへらりとお得意の甘ったるい艶笑を添えるだけ。「怒って良いですよ。永琉先輩になら、怒られるのも悪くないので」そんな余裕たっぷりな返答に、顔が強張った。
「先輩、何か勘違いしてませんか?」
「何を?」
「俺、ふざけてるつもりなんて微塵もないですよ」
仕事でも見せた事のない平野の真剣な表情に気圧されて、ゴクリと息を呑んだ。な…何なの。何なの何なの何なの何なの。どうしてあんたは一々私の地雷を踏んでいくのよ。
ふざけてしかいない癖に、舐め腐ってばっかりの癖に、急にこうやって端整な顔に説得力のある表情を浮かべて相手を黙らせる。
だから私は平野が嫌いなんだ。大嫌いだ。
この男は常々私の「嫌い」を更新してくるからある意味凄い。これ以上募る事なんてないと思っていた嫌悪感が更に募っていく。このペースだとエベレストを超えるのも時間の問題に違いない。
「先輩の方こそ、たまにはちゃんと俺を見て下さい」
「見てるじゃん。実際、平野の仕事ぶりは評価して…「嘘つき」」
甘い吐息交じりの甘い囁きが、耳朶を擽る。私の指を一本一本絡め取った平野の指。そして重なった二人の掌と体温。あ、こいつってこんなに手大きかったんだ、知らなかった。さては骨格ナチュラルか?
…そうやってふざける余裕は生憎私の手元には残されていない。
ここは間違いなく日本なのかと疑う位に手の込んだラブホの独特な雰囲気が、更に私を精神的に追い詰める。
「そういう事じゃないです。先輩に見て欲しいのは、違う所」
例によって子供さながらな拗ね方をする平野の顔がすぐそこにある。仕事場でのデスクの配置上、こいつの完璧に近い横顔は嫌でも目に入るけれど、こんなにも長い時間正面からこの男の顔を視界に映すのは初めてだった。
平野の息遣いをはっきりと感じる。心臓がドクドクと脈を打っている音も聴こえるし、体温が意外と高いという知りたくもない知識まで脳がインプットしてしまった。
「俺だけを見てよ」
「…っ」
「ちゃんと、俺だけを見てよ永琉先輩」
分からない。あんたが何を求めているのかがさっぱり分からない。私はあんたを見ているつもりなのに、あんたは違う所を見て欲しいと乞うている。
我儘言ってんじゃないわよと文句の一つや二つ吐き捨てたいのに、喉がギュッと締まって声が出ない。慣れない呼吸と体温とを感じているせいなのだろうか、自分の肉体なのに思う様に反応できない。
ハラリとブラウスの襟が余計に開けて、大きく自らの素肌が露出した。ブラジャーの肩紐が二の腕までズレ落ちている。直したいのは山々だが、手を拘束され、身体の自由までも奪われているせいで叶わない。
「永琉先輩」
「もう…いい加減にしてってば…何なの」
空いている手で額にあった髪をそっと掬った相手が、露わになったそこに唇を落としてふわりと頬に靨えくぼを作る。靨って、生まれる前に天使に口付けをされた証拠だって漫画の資料を集めてる時に何かの本で読んだ覚えがある。
私の指を絡め取った手に力を込めて強く握り緊める平野は、額に落とされたキスに不満を訴える様な表情を浮かべる私を見て蕩ける様に眼を細めた。
「好きです」
“永琉先輩のことが、好き過ぎて”
“俺、狂っちゃいそう”
ep.17 End