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ep.16風俗スタッフの男③


 願わくば全てが悪夢であって欲しい。何で私と平野こいつがラブホにいるんだよ。



 頭が痛い。そのまま意識が遠のいて気絶できたりしないだろうか…できないよな。うん、現実がそこまで私に優しく寄り添ってくれない事は平野が後輩になった時点で覚ってたわ。



 状況の把握ができないというよりしたくなくて、仕事なんかよりも余裕で優先順位の高いゲームをこの私がプレイ途中の画面でベッドに放った。そしてガンガンと痛む頭を両手でしっかりと抱えて髪を掻き乱した。



「ドッペルゲンガー?それとも双子とか?どっちにしろ最悪だけど本人よりはマシ…「やだなー永琉先輩。俺はちゃあんと永琉先輩が可愛がっている平野 翔ですよ?」」



 本当にやだなーだよ。何でお前なんだよ。よりにもよって地球上の人口77.53億人の中で私が最も嫌いとする人間がどうしてここにいんのよ。


 冗談抜きで口から泡を吹きそうだ。人生で吹いた事ないから分からないけど多分今なら吹けると思う。それ位に気分が悪い。胃の底がムカムカするし、悪寒が止まらない。



 ベッドの外に両脚を投げる形で座ったまま思考を巡らせていると、ギシッと固いベッドが軋む音が鳴ってマットレスが深く沈んだ。その拍子に視線を宙に浮かせて原因を探れば、平野が僅か数十センチしか離れていない場所に座っていた。



 何で平然とベッドに上がって来てんのこの男???ただでさえこっちは思考回路が爆発してるってのに、相手は美しい笑みを顔に咲かせニッコニコしている。




「はぁー、マジでどういう事?」

「日曜日の永琉先輩も超可愛いですね」

「おい」

「休日の永琉先輩ってレアだから、網膜に焼き付けないと…「ふざけないでちゃんと質問に答えて」」



 自ら投下したはずの声が思っていたよりも低くて驚いた。「気が動転している」なんていうレベルではない心と思考の乱れが起きているせいだった。



 細長い睫毛をパチパチと瞬かせている相手は、睫毛で丁寧に丁寧に縁取られている色素の淡い瞳に形容し難い表情を浮かべている私の顔を映し出す。




「何がですか?」

「……」

「俺に質問があるなら、もっと具体的にして下さい永琉先輩」

「…っっ…あんたね…「ほらだって、折角の二人きりじゃないですかぁ」」



“俺、永琉先輩からの質問なら、何だって答えますよ?”



 無駄に艶と色を孕んだ声が、私の耳元で甘さだけを残して溶けた。



 お尻一つ分平野から距離を置けば、お尻一つ分相手がその距離を詰めてくる。わざわざ近寄んな、もっと離れろ。ありったけの不満を顔で表してみても、花が綻ぶ様な微笑を返されるだけ。私に残された逃げ場はごく僅かである。



 全てを受け入れるにはまだまだ時間が必要そうだったが、血の気の失せた顔を手で覆いながら言葉にも声にもならない感情を吐息に含ませた私は、目線だけを平野に投げた。




「ノラって何なの」

「何って源氏名に決まってるじゃないですかー。本名でこういう仕事するのはちょっとなーって思って、「平野ひらの」って苗字の最初の「ひ」を抜かして反対から読ませてみました」

「平野 ノラって…あんたバブリーダンスでもするつもりか?しもしも?とか言うつもりか?肩パッド入れた赤いジャケット羽織るつもりか?」

「え、何の事ですか?」

「……」



 通じなくて草。なけなしの余裕を掻き集めて放った私のボケを真顔で返すなよ、やはりこいつとは心底馬が合わないな。


 やたらと純朴な瞳を向けて首をコテンと折る平野の姿は、私以外のsucré編集部の人間が目撃したら「キャーキャー」と黄色い悲鳴を上げそうな程に美しい。



 天井に吊り下がっているラブホには似合わないシャンデリアのせいだろうか、それともこの私では余りにも不釣り合いなメルヘンな部屋の装飾のせいだろうか、いつにも増して平野が眩しい。そしていつも以上に平野の言動が癪に障る。



「うちの会社は副業禁止っていう規則もないし、あんたが好きでやってる副業なんだろうから私には関係ないけれど、何でまた女性用風俗のボーイという特殊な仕事をしてんの?純粋に疑問なんだけど。平野はモテるんだから異性に困らないでしょ」

「えー、それ訊いちゃいます?」

「私の質問には答えてくれるんでしょ」

「そうですね」

「じゃあ教えて…きゃっ…」



 せめて最後まで人の発言は聞けよ!そんな文句を紡げなかったのは、私を押し倒した男の顔が酷く艶やかだったからだ。不覚にもその平野に見惚れてしまったからだ。



 洗剤なのか柔軟剤なのかは不明だけど、兎に角安っぽいフローラルの香りを放つシーツの上に私の長い髪が疎らに広がった。一体どういう冗談のつもりなのか、私の上に跨っている平野のせいで身体が異常に深くベッドに沈む。


 やがて鼻を掠めたいつもいつも隣から香る甘くてお上品な平野の香りは、職場で感じるよりもずっと濃かった。睫毛を伏せる様にしてこちらを見下ろす色っぽい男を睨み付ければ、相手の口許には三日月が浮かぶ。



「すみません永琉先輩、それは秘密です」

「は?」

「永琉先輩が俺の恋人になってくれたら教えますね」

「そんな日は一生来ないから」

「分かりませんよ?だって俺、本気ですもん」

「……」

「それから、私には関係ないって言うのやめて下さい」

「何でよ」

「何でって、俺がこの仕事をしているのは少なくとも永琉先輩に関係があるからに決まってるじゃないですかぁ」

「意味分かんない」



 眉を顰めてぐしゃりと顔を崩した。それなのに、ふふっと愉快そうな相手の柔らかい声が耳を突く。突然勢いよく倒れたせいで私の首に絡みついている髪を払った平野の手が自然な流れで私の頬を撫でるから、吃驚して目を見開いた。



 相手の吐き出す二酸化炭素が頬に触れるまでに近かった。そんな、睫毛と睫毛が絡まってしまいそうな距離にある生理的に嫌いな男の麗しい顔。


 生理的に嫌いなはずなのに、平野の手が私の頬をなぞっても嫌悪感を抱かなかない自分がいる。その事実が無性に悔しくて腹立たしい。



「こう見えて俺、永琉先輩に拒絶される度に結構傷付いてるんですよ?」

「離れて」

「それから、どうして永琉先輩は俺を見てくれないんだろうってむしゃくしゃしてます」

「うるさい、離れてってば…「嫌です」」



 嗚呼、ムカつく。どうしようもなく、あんたにムカついて仕方がない。


 恐らく私服姿であろう平野は、オフィスで見る時とはまた違う雰囲気を纏っている。自分の顔やスタイルを熟知し尽くしたかの様なコーディネートは、ファッション誌に載っている読モより遥かに画になっている。



 何をやっても易々と己の物にしてみせるそういうあんたが、私は嫌いなんだ。



「やっと、やっと手に入れたこの機会を逃す気なんてないです。ねぇ、先輩…」


“気持ち良くしてあげますね”



 そんな台詞が溶けた刹那、平野の指が私のブラウスのボタンを外した。



ep.16 End





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