あのー、とりあえず腕を放してくれませんかね。
グイグイと私の手を引いて突き進む平野と擦れ違う女性社員が「え、今の人イケメン」「あのイケメン誰?」「平野さんだ」次々と頬を染めて、平野に熱い視線を注いでいく。そのお零れの視線が私にまで突き刺さって大変に落ち着かない。
「平野、ちょっとストップ」
「……」
「平野ー」
「……」
「もしもし!?!?聞こえてないの!?!?平野!?!?」
「…え」
三度目の正直。僅かに荒ぶった私の声をやっと拾ったのか、我に返ったかの様に足を止めた相手がくるんと振り返って対峙する。
この男が長身なせいで立っていると毎回見上げなければいけないのが非常に癪である。それにしても、やはり今日の平野は何処か可笑しい。へらへらして能天気に見えるけれど、こいつはいつだって隙が無い。それなのに今日はどうだろうか、隙だらけに思えてならない。
現に今だって上の空でしたって感じだった。平野に隙があるとか恐いんだけど。雪でも降るんじゃないの。それか散ったばかりの桜が狂い咲くとか?
「どうしたんですか、先輩」
「どうしたもこうしたもない。視線が痛いから腕放してくれる?」
「えー」
「えーじゃない」
「アハ、嫌です」
「あん?」
「だってぇー、こうしてると社内恋愛してるカップルだと誤解する人も絶対いるじゃないですかぁ」
「だから放せって言ってんの。誤解されるなんてごめんだわ」
「…山田さんとなら良いんですか?」
ワンオクターブ下がった声に、微かに動揺を覚えた。はぁ?どうしてここで山田が出てくんの?全然関係ないでしょ。
目と鼻の先にある目的地のカフェからは、コーヒーの香りが漂っている。スイーツも提供しているせいか、それに混じって甘い焼き菓子の香りもした。
「毎日俺がお昼に誘っても一緒に食べてくれない癖に、山田さんとは食べるんですね」
「は、はぁ?」
「しかも随分と楽しそうだったじゃないですか。仲良さそうに二人して笑って…」
「そりゃあ同期だし高校から一緒だから仲も良くなるでしょ。何当たり前の事言ってんの」
「……ですか?」
「……」
「山田先輩と、本当に呑みに行くんですか?」
「まぁね、あっちと私の都合が良ければ行くんじゃないの」
「狡いですね、同期ってだけで永琉先輩とランチできる山田さんは狡いです。でも……」
“永琉先輩はもっとずっと狡いです”
平野のやけに毒のある発言に青筋を立てられなかったのは、平野が苦虫を嚙み潰した様な表情を浮かべていたからだ。思い切り怒れなかったのは、寂しそうな空気を出す平野を見るのは初めてだったからだ。
***
あれから何事もなく数日が過ぎた。あの後、普通にホットのラテを注文して、私の注文を聞いた後にすかさず同じ物を注文した平野は、クレジットカードで二人分の支払いを済ませた。
先輩面くらいさせろよ。そう思いつつ湯気を揺蕩わせている紙でできたカップを受け取って「ありがとう」と漏らせば、「やったー永琉先輩とお揃いですね。匂わせちゃおっかなー」いつもの調子にすっかり戻ったクソ生意気後輩平野がそう答えた。
そして本当にカップを持っている私の手に、同じくカップを持っている己の手を寄せてスマホのレンズを向けて連写した。マジでやめろ、そもそも使い道ないだろその写真。何より、こんな無機質な写真一枚で十分だろ。
濃厚なミルクの香りとコーヒーの香りが合わさって鼻孔を抜けていく感覚に心が安らぐ。ゴクリとそれを流し込めば、ほろ苦い味が口腔内に溶けていく。
「あんた疲れてんの?」
「えー?何でですかー?俺疲れてるように見えます?」
「いや全然見えない。いつも通りの憎たらしいへらへら具合だし、無駄にイケメンな顔にも隈一つないし」
「ちょっとー、即答しないで下さいよ先輩。俺のハートは硝子細工くらい繊細だって言ってるじゃないですか」
「あっそ、現代の硝子細工は随分と強度が高いわけね」
「相変わらず辛辣~」
とか言っておきながらへにゃりと笑ってんのが気に喰わん。絶対辛辣だと思ってないだろうし、こいつの心は一ミリも傷付いていないだろう。向かい合う形で座って全く同じサイズのラテを飲んでいる平野の姿は、適当にシャッターを切っても立派な画になりそうだ。
方や窓ガラスに映っているラテを飲んでいる自分の姿は社畜で疲れ切ったヨレヨレの女。あれ、本当に私と平野は同じ飲み物を飲んでんのか?どうしてこんなに差が出る?神様も意地悪ばっかりしてくれるよな。
「ま、あんたが言う気がないなら追求するつもりもないけど。無理すんなよ」
こいつとどうして昼休みにラテなんか飲んでいるんだという疑問と不満は募る一方だが、食後にこうして落ち着いた時間を楽しむのも悪くないかもしれないとは悔しいけど思う。
頬杖を突いて目の保養だけにはなる人間の顔を凝視していた私を射抜くのは、色っぽい三白眼。平野はコテンと首を傾げて「どうして俺が疲れてるって思ってるんですか?」そんな質問を私にぶつけた。
十中八九、平野と居るせいなのだろう。カフェの店内に座ってラテを飲んでるだけだってのに、周囲の視線が痛くてそろそろ身体を貫通しそうだ。
「別に大した理由はないけど。ただ、平野ってブラックコーヒー派じゃん」
「へ?」
「ラテを飲んでるなんて初めて見たわ。さっきも気が立ってるっぽかったし、疲れてんのかなって思っただけ。後輩だって初めてできて受け持ってる仕事だけでも大変なのに、仕事教えたりすんのもそれなりに体力削られるから、平野なりに大変なのかなってお節介な思考を巡らせただけ」
「……え、ちょっ…待って…どうしよう」
「はい?」
落とした台詞にどんどん顔を赤く染めた平野は、耐えられなくなったといわんばかりに自分の腕に赤面した顔を埋めて明白な動揺を見せている。
突然どうした、そんなにラテが熱かったのか?何事においても緩いこの男の心情を察する高難易度のスキルなんぞ当然持ち合わせていない私は、眉を顰めて怪訝な表情を浮かべた。
チラリ。申し訳ない程度に双眸だけを覗かせて私と視線を絡ませてから、相手はゆっくり開口した。
「嬉しい」
「……」
「どうしよう、超嬉しい…です。俺がブラックコーヒー派って先輩が知っててくれてたなんて思ってもみなかったから嬉しくて…俺のイケメンフェイスがだらしないキューティーフェイスになっちゃうじゃん」
いや、自分でイケメンとかキューティーとか言うなよ。自分の大層整った容姿を自覚しているこの男は、質が悪いったらありゃしない。
しかしながら、今更こいつの清々しいナルシストっぷりを目の当たりにしたとて、特別驚きはしない。だって平野ってこういう奴だもんな。そんな感想しか出てこない。慣れという物は全く、つくづく恐ろしい。
少々珍妙な平野の言動を受け流しながら、ラテを啜る。
「で、結局疲れてたり悩んでたりってのはないわけね?」
「はい。永琉先輩が隣のデスクに居てくれる限り俺はいつも元気でーす」
「何それウザい」
「可愛い後輩なんだからもっと愛でて下さい♡」
「お断りします」
まだ頬に桜色を残したままの相手は、秒速でこちらが出した回答にへらりとお得意の艶笑を携えて「俺、永琉先輩に受け入れて貰えるまで諦めないので覚悟して下さいね」と死刑宣告も同然な爆弾発言を残したのだった。
ep.11 End