なーんだ。平野が面談してくれてるって知ってたらもっとゆっくり山田と話してたのにな。
原稿を大切に纏めてデスクに戻した私は、小さく溜め息を零して「次からは自分が面談するって言ってよね」そう言葉を吐いた。すると何故か平野が吃驚した表情を浮かべてパチパチと瞬きを繰り返した。
「え…怒らないの?」
相手から落とされた一言は、私の首を捻らせる内容だった。え?何で私が怒るの?意味分からん。
質問に隠された意図が全く読み取れなくて、眉を顰める。それでも平野は私の反応が大層不思議な様子で、キョトンとしていた。こいつがこんな無防備な顔を見せるなんて珍しいな。
「何で怒るわけ」
「だって、俺の独断で永琉先輩にも連絡せずに勝手に持ち込みの原稿を見て作家さんと面談したから……てっきり叱られると思ってました」
罰の悪そうな顔を見せる平野が貴重過ぎて、すかさずスマホのカメラを向けて写真に収めて弱味を握りたい衝動に駆られるけど、そんな事をしてしまっては自分で自分を嫌いになってしまいそうなので必死に己の心を宥める。
お前は捨てられた仔犬か?語尾の声量を絞ってあからさまにシュンとしている平野に苦笑が滲む。そもそもこいつの中の私ってどんだけ心の狭いヒステリックなのよ。心外なんだけど。
「原稿を見るのも面談をするのも俺がやりますって言ってくれたら百点だった」
「……え?」
「愛おしい昼休みを削ってまで急いで来たのに無駄足だったのは正直不服」
「……」
「だけど別に怒ってないから」
「へ?」
「平野がどんな勘違いをしているのかは分からないけど、私は平野が真剣に仕事に向き合っている事を知っているし、仕事に関してはちゃんと平野を信用してるから」
「…っ」
「だから、平野が良いと思った作家さんならsucréに載せる事を前向きに検討するつもり。まぁ、全ての決定権は髙橋編集長が持ってるけどできる限り推してみるわ」
例えチョモランマ級に生理的にこの男を嫌悪していたとしても、こちらは私情を挟むつもりもないし、仕事は仕事でちゃんと評価する。それが私のモットーだ。
平野は嫌いだけど、平野の仕事ぶりには一目置いているし信頼を寄せている。だからこそ、目の前のデスクに置かれた原稿を信じられるし、期待を寄せられる。
それにしても平野のせいで変に昼休みの時間を持て余してしまった。面談もなくなった今、私にやるべき仕事がない。かといって、自分から前のめりで仕事を探すタイプでもないし勿論そんな時間があるならば一秒でも多くゲームの敵を殺したいので、自分のデスクの椅子を引いて腰を下ろした。
常備しているビターチョコレートを抓んで口に放り込む。ほろ苦いカカオの香りと、チョコレートの甘さが舌の上で溶けていく。
「……です」
「ん?」
「永琉先輩のそういう所、つくづく狡いです」
「はい?」
「変に期待させないで下さい。これ以上……」
“これ以上、俺をドキドキさせないで貰えます?”
ぐいっと強引に手首を引かれ、縮まった私達の距離。視界を占領するクソイケメンな顔は、こんなに近くで凝視しても毛穴一つ見当たらない。クソッ、羨ましい奴め。前世でどんな徳を積んだんだ。
因みに平野の台詞に対しては、今度は私が拍子抜けする番だった。相手の言っている言葉が心底理解できなくて脳内に疑問符が浮かびまくる。
いつもやけに賑やかなせいか、私と平野しかいないsucré編集部内はとても寂しさに包まれている感じがした。もうすっかり通い慣れたオフィスなはずなのに、まるで全く違う職場に来たかの様な感覚すら抱いた。
舌の上で踊っていたビターチョコレートが完全に溶け切って、甘い余韻だけを残して消え去った。カカオの香りが失せたせいか、平野の香りが一段と強く感じた。
「近いからとりあえず離れろ」そう言ってぐいっとイケメンフェイスを手で押し返したいところだけれど、それができなかったのは、平野が入社以来初めてとも言えるまでに真剣な面持ちを崩さなかったからだ。
急にどうしたん?変な物でも食べてあたったんか?
それ以外に考えられない。ほんの数秒の沈黙を置いて、困り果てながらもあり合わせの回答を口にしようとした刹那だった。
「たっだいまー!あら、永琉ちゃんも平野君ももう戻ってたの?全く頼もしい限りだわ…これからもsucréをどうか宜しくね」
オフィスに意気揚々と現れた髙橋編集長のおかげで、その場に流れてた絶妙に重い空気が一瞬にして抹殺されたのだった。
「あーあ、イイトコだったのにー。」
「(助かったー、ナイス髙橋編集長)」
補足しておくと、その日、私は初めて髙橋編集長に感謝の念を覚えたのであった。
ep.8 End