目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
ep.7仕事だけはできる男④


 ホームとも呼べる編集部のオフィスに戻ると、一番最初に嫌な奴が目に入り、自然の摂理で眉間に力がこもった。


 まだ昼休憩終わるまで時間あるのに何で平野がいんの?最&悪。



「永琉先輩お帰りなさーい」



 酷く退屈そうにホワイトボードに落書きしていた平野は私の存在に気付くなり、ふにゃりと蕩ける様に口許を緩めた。どうでも良いけど落書きにしちゃ大分絵上手いな。画力まで高いって何者なのこいつ。


 前に平野の担当している漫画家先生と話す機会があった時に「平野さんがアシスタントさんよりアシスタントしてくれて助かってます」なんて言っていた事があって、あの時はその意味が解せなかったけど…確かにこの画力なら漫画のアシスタントもできるな。


 しかもやけに惹きこまれる魅力的な絵を描くんだな平野って。繊細なタッチだし、線の一本一本がとても丁寧だ。ふざけてばかりいる平野の印象とはかけ離れたギャップのある絵に、ちょっとだけ魅入ってしまう。




「平野お昼食べてないの?」

「食べましたよ?暇だから早めに戻って来たんです」

「昼くらいゆっくり休めば?」

「えー、だって、早く帰って来たら永琉先輩に一分でも早く会えるかなって思って」

「何言ってんのあんた、別に早く会わなくてもほぼ毎日顔合わせてるじゃん」

「はぁ…永琉先輩ってつくづく鈍感ですよねぇ」

「あん?」



 明瞭な溜め息を盛大に吐き出され、私の額には青筋が浮かぶ。


 やれやれと言わんばかりに両手を挙げて首を横に振った平野は、私の視線を双眸で絡め取った。



「俺は一分一秒でも長く永琉先輩と一緒にいたいんです」

「……」

「やっぱ、早く帰って来て正解だった」


“だってほら、こうしていつもより早く可愛い永琉先輩に会えた”



 私達以外に人がいないせいだ。きっとそのせいだ。


 平野の声がやたらと耳に纏わり付くのも、私の鼓動の音が若干騒がしく感じるのも、私達を包む静寂のせいだ。いい加減な平野に対して胸が高鳴っている訳ではない。



 それだけは、断じて、ない。



「平野って絵描けるんだね」

「sucré編集部で働く時にすこーしだけ勉強してかじりました」



 へぇー、常に余裕たっぷりなこの男でも事前に仕事の予習とかするもんなんだな。ちょっとだけ見直した…かも。


 にしても少し勉強して齧っただけでこんなに綺麗な絵を描けるもんなのか?私なんて漫画家先生の手伝いができる様になるまで家で寝る間も惜しんで絵を描いて、描いて、描きまくってどうにかこうにか技術を身に付けた。


 マンガ自体が私にとって未知の世界だったから、誰の足も引っ張りたくない一心でこそ練ばっかりしてた。学ぶ事が多くて新人の時は徹夜が当たり前だったな。



 今でこそ目を細められる位に懐かしい思い出と化しているけど、あんなスケジュール今の歳でやったら普通に過労死してる自信ある。そう考えると、私は自分が想像していたよりもずっと長い間このsucré編集部に在籍してんだな。



 時間の流れってあっという間だわ…そりゃあ三十路も目前に迫っている訳だ。



「ふふっ、これ、永琉先輩をモデルにしてます」

「え?なんて?」



 聞き間違いか?知らず知らずのうちに疲れが溜まって私の聴覚が異常をきたしてんのか?


 鼓膜が拾った言葉がどうか間違いでありますようにと胸中で全力祈祷する私を余所に、ホワイトボードに描かれている天使の頭上に専用のマーカーで輪っかを加えた平野の顔には、これで完成だと書いてあるみたいだった。



「だーかーら、永琉先輩をモデルに描いたの。どうですか?俺、結構頑張ったんだけど?」

「どうもこうもない。平野、あんた疲れて視力落ちてんじゃないの?眼科受診したら?私をモデルにしてるのだとしたら美化し過ぎてる。それ以前に何で天使なんだよ、勝手に殺すな」

「ぇえ?そっち!?」



 意表を突かれたかの様に目を見開いて珍しく吃驚している相手に首を捻る。私はまともな感想を述べただけなのに何で不満そうなんだよこいつ。逆にどっちだと思ってたんだ?


 天使なんて神様の使いじゃんかよ、私バリバリ人間として生きてるんですけど?遠回しに嫌な先輩への「死ね」というメッセージか?平野なら有り得るな。



「もー、期待してた反応と全然ちがーう」

「不満そうに唇尖らせんな。三歳児かよ」

「どうしよう…俺、永琉先輩が辛辣で泣きそう」

「平野に涙を流すって概念あったんだ」

「ちょっとー?俺の硝子のハートにどれだけ罅ヒビ入れるんですかー?」

「こんな事してる場合じゃない。持ち込みの原稿チェックがあるんだった」

「あー無視される俺が可哀想で本当に目頭熱くなってきた」

「眼精疲労じゃん、やっぱ眼科受診しなよ」

「違いますー。永琉先輩が意地悪するからでーす」



 両頬に空気を溜めて膨らませている相手はまるでハムスターみたいだ。そんな表情してもイケメンフェイスは崩れないのかよ。遺伝子最強だな。


 プリプリと怒っているっぽい雰囲気を醸し出している平野から目線を逸らして、スタスタと足を早めた私は自分のデスクから必要な物を取ろうと思っていたというのに、どういう訳か初めて見る原稿が既にデスクに置かれていた。



 あれ、昼休みに入るまではこんなの置いてなかったんだけど…そして一体全体誰の原稿なのこれ。見覚えもなければ心当たりもない。月刊誌『sucré』にはこんな作画の漫画家さんはいない。


 怪訝に思いながらも原稿を手に取ってパラパラと捲る。読み切りなのにしっかりと物語に深みがあって、絵も綺麗だ。キャラクターも引き立っているし、台詞にも魅力がある。



「かなり良いですよねー、この人の作品」

「肩重い」

「作画もsucréの読者受け良さそうじゃないですか?」



 おい話聞けよ。


 いつの間に移動して来たのか、私の肩に顎を乗せて手に持たれている原稿へ視線を落とす平野の言葉は、悔しいが私が思っている事と完全に一致していた。



「これどうしたの?」

「永琉先輩に原稿持ち込みする予定だった人が、時間の都合で早めに来ちゃってて丁度俺が対応できたんで勝手に面談と原稿チェックしちゃいました。あは♪」



 あは♪じゃねーよ、そんな大事な話は何よりも優先的にしなさいよ。平和ボケ満載の口調に全身が脱力してしまいそうになった。この男といると私の数少ないHPが削られる一方である。



「ちょっと手直しは必要っぽいけどかなり良い。この人帰られたの?名刺渡して夏の単発読み切り掲載できるか打診したい…「そう言うと思って、代わりに俺が話つけておきました。永琉先輩のスケジュールに余裕がありそうな来週の火曜日にもう一回ここに来てくれるみたいなのでそこで詳しい話をしたら良いんじゃないですか?」」



 隙のない平野の仕事ぶりに、顔がぐしゃりと歪む。


 全く、何処までもいけ好かない奴だ。どんな仕事でもいとも容易にこなしてしまう器用な平野は、それを鼻にかけもせず威張りもしない。さも当然かの如く涼しい顔でやり遂げてしまう。



 そんな厭味なあんたが、私は苦手だ。横へ視線を向けただけで視界いっぱいを埋め尽くす端麗な相手の顔。長い睫毛は放物線を描いていて、瞬きする度に風を煽いでいそうだった。




ep.7 End




コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?