そこまで遡る程の年月もないけれど、今から約五年前。『sucré』編集部内は十年振りに男性社員が配属されるらしいという噂で盛り上がっていた。
当時私はまだまだ駆け出しとも言えるレベルに達していないヨチヨチの二年目で、たった一人で、しかも男性で、この月刊女性マンガ誌の編集部に配属される事になったらしい人物の名前が記された用紙に視線を落として同情していた。
恐らく私が平野に同情なんて甘っちょろい心を向けたのは、後にも先にもあの瞬間だけだったと今では強く確信している。
「平野 翔」読み仮名がふられていないその名前を初めて見て、「お、もしかしなくてもこれはあの飛ぶ鳥を落とす勢いの、キラキラしているアイドルグループのセンターと同姓同名か?漢字は違うけど同姓同名か?」なんて想像を呑気に膨らませていた。
私の代が新入社員としてこの出版社に入社した際、sucré編集部の配属に決定したのは同期の中で私一人だけで、最初の一年間はかなりロンリーに浸る時間もあった。
そのせいもあってか、
そう、今では大変に認めたくない過去なのだが、私は自分の初めての後輩になるらしい「平野 翔」というまだ見ぬ人物に実は結構心を躍らせていたのである。
当時、月刊女性マンガ誌『sucré』の業績は恐ろしいまでの低空飛行で、出版社の中でもかなりの弱小チームだった。実写ドラマ化や映画化になる作品はまるでなく、SNSで話題になる程の物語にも恵まれず、これは私の勝手な推測だが間違いなく社内の廃刊候補ぶっちぎりの第一位に君臨していた。
そんな誰もが察するレベルの自転車操業状態のsucré編集部に私の後輩として配属が決定したのが、平野 翔というたった一人の人物だった。
とどのつまり、私は平野以外に希望や期待を抱く相手がいなかったのだという言い訳だけは先にさせて頂こう。
業績報告の日と、締め切り日と、チーム会議の日…それ
「ちょっと皆、一旦手止めてくれる?今日から新しくsucréの編集部に仲間入りする新入社員の子です。平野君、自己紹介してくれるかな?」
オフィスにいた誰もが、喋っている編集長に視線を向けている振りをして、その隣に佇んでいる長身の男へ熱視線を注いでいた。
お祓いでもした方が良いんじゃないの?ここは沼の底か?ってくらいどんよりしていたsucré編集部内の雰囲気が、瞬く間に華やいだ。
ココアブラウンのセンターパート。この髪型はこいつの為に爆誕したのかと思ってしまう程によく似合う綺麗な顔。切れ長だけどしっかりと縦幅にも愛されちゃってる三白眼は、ミステリアスで色っぽい。
高くて真っ直ぐ通った鼻筋に、完璧な長さの人中と、薄い上唇に厚みのある下唇はどちらも血色が美しくリップを塗っているみたいな桃色だった。
要約すると容姿端麗。もうどの角度から見ても欠点がまるでない絶世の美形。
人妻であろうが子持ちであろうが関係なしに、無差別にsucré編集部内の社員全員の頬を赤く染め上げて見せたその男は、今ではすっかりお馴染みのお手振りを披露してへらりと口角を持ち上げた。
「初めまして、今日からsucréに配属になった
「……」
平野に対して私が希望と期待なんて生易しい心を抱いてワクワクできた時間はたったの五分であった。繰り返す。たったの五分であった。
平野の自己紹介が終わった時点での私の感想はこうである。
思ってたんと(大幅に)ちゃう。
キーボードの存在を無視して勢いよくテーブルに突っ伏した私はしっかりと頭を抱えた。
何だ今のとてつもなく緩い自己紹介は。大学のサークルの新入部員挨拶かよ。ていうか好きなご飯の補足情報何なの、クソいらねぇなおい。幻かな?夢かな?疲れ過ぎて妖怪でも見えてんのかな?
「「「キャァアアア!」」」」
「イケメンキターー!!」
「平野君、ようこそsucré編集部へ!!!」
必死に現実逃避をするこちらを余所にデスクのあちらこちらから奴を大歓迎している先輩と上司の声が上がる。しかも心なしかいつもよりワンオクターブ声が高い気がする。ちゃんと乙女になっていやがる。
はい詰んだ。現実世界って夢も希望もないんだね。もうアンパンマンを見習って私も愛と勇気だけを友達にして生きていこうかな。来年に期待するしかないから己の心を殺してこの一年間は頑張るしかないな。新しくできた平野という後輩の存在はそっと頭の隅に追いやろう。そうしよう。
非情で受け入れがたい現実に打ちのめされながら何とか顔を上げて、下っ端の私でも任せて貰えている目の前の仕事に手を付けようとした刹那…。
「えーるちゃんっ!」
眩い笑みを浮かべて私の名前を呼んだ編集長と視線がぶつかった。私は占い師でもなければ預言者でもないが、この瞬間ばかりはこれから起こる事が私にとって最悪な物になるのだと妙な確信があった。
「な、何でしょうか…
「今日から平野君の教育係お願いします」
「え?」
「だってだって、新人のお仕事を一番分かってるのは永琉ちゃんでしょう?」
「それはそうですが」
「私達の実力不足のせいで永琉ちゃんは同期もいなくて心細かったと思うし…」
「いや別に…「やっと入って来た歳の近い平野君とは仲良くして欲しいなーって思ってるの!」」
「……」
「大丈夫よ、私含めてsucré編集部メンバーは、美人な永琉ちゃんとイケメンな平野君の絡みを目の保養に頑張っちゃうんだから」
ちょっと待ってくれ、これっぽっちも大丈夫じゃないな。
当時、誰がどう見ても一番仕事のできない私に髙橋編集長の指示を拒否する勇気はなく…というよりも端から拒否の権限すら与えては貰えず、ゆとり世代のど真ん中をひた走ってきたこちらの度肝をも抜き去る脅威の緩さを見せつけた平野という名の出来立てほやほやの後輩を、私はただ黙って引き取るしか道がなかった。
先輩方が全く以てありがた迷惑な気を利かせてくれたおかげで、平野のデスクは私の隣になる事が決定し、以降、今日に至るまで私と平野はお隣さんであり続ける羽目になった訳である。
最初の自己紹介から人に嫌悪感を与えるという恐ろしい才能の持ち主である平野は、sucré編集部には初出勤だというのにまるで勤続数年が既に経過しているかの様な妙な余裕風を吹かせていて、緊張感で背筋を伸ばす事は一切なく、デスクに肘を立てて頬杖を突きながら初対面の先輩である私の顔を覗き込んで来た。
気に喰わねぇ奴。至近距離で眺めてもケチの付け所がゼロな顔面に胸中で文句を吐き散らしつつ、己の力の限りを尽くして口角を持ち上げた。
「初めまして平野さん。私は
「こちらこそ末永くよろしくお願いします、永琉先輩」
「は?」
「皆、永琉先輩の事下の名前で呼んでるし俺だけ苗字呼びするのも仲間外れみたいで寂しいじゃないですかぁ」
「……」
「なので、俺も永琉先輩って呼びますね。だから永琉先輩も俺を翔って呼んでも良いですよ?」
「あんた頭沸いてんの?」
会話のキャッチボールを始めてたったの三往復半。目前にいるクソイケメンなだけの生意気な後輩平野は、早くも私の心の中で「苦手」から「嫌い」への昇格を果たしたのだった。
ep2. End