私は、一つ下の後輩の
***
大手出版会社の編集部。その中の月刊女性マンガ誌『
春うららな季節も姿を消した五月初め。業務開始十五分前。正式に配属部署が決定した新入社員三名が、まだまだピカピカで綺麗なデスクに座って愉し気に会話に花を咲かせている。
「女性マンガ誌担当って言われた時はちょっとがっかりしちゃった」
「私も~。ファッション系行く気満々だったけど、sucréの編集部に配属って言われた瞬間やる気出た」
「分かる!!!それってやっぱり平野さん?」
「そうー!平野さんみたいなイケメンがいるなんてまーじ驚いた」
「sucréに決まってから幾つか作品読んだけど、平野さんがどのヒーローよりもイケメンだよね」
「それな~」
「何やかんやで平野さんがいるsucréに決まった私達ってラッキーだよね」
平野。平野。平野。平野。キャッキャウフフと声を上げている彼女達の口から何度も放たれる奴の名前に、普通に不愉快になってデスクに常備しているビターチョコレートを一粒取って包みを剥いた。
平野さんがどのヒーローよりもイケメンだよね~じゃねぇよ。あいつの何処が良いんだよ。sucréはあいつよりもイケメンなヒーローしかいねぇよ。
平野さんがいるsucréに決まった私達ってラッキーだよね~じゃねぇよ。あいつがいる事が何よりも不運だよ。
今にも顔を顰めたくなるけど、そんな顔を見られでもしたら敵しかできないから必死に堪える。たまには早く出社してみるかなんて思い立ったのが運の尽きだったのかもしれない。
始業前なのに不在のあの男の名前ばかりが飛び交うオフィスの居心地の悪さは私的に五つ星だった。
カタカタとPCに向かって担当している漫画家さんへの業務メールを打っていると、あんなに平野ストーリーを楽しそうに展開していた新入社員が突然静まり返った。
それもそれで酷く奇妙で怪訝に思った次の瞬間。
「
この世で最も嫌いな男の声が降り注いだ。鳥肌の嵐が私の両腕両脚に吹き荒れる。動き続けていた指もピタリと止まってその代わりにピクピクと小さな痙攣を起こしている。
因みにこの症状を私は平野嫌悪病と名付けている。実に稀な病気だ。十三億人に一人が発病する難病だ。
早朝なのに早速胃もたれを起こしそうになりながら視線を持ち上げると、私の向かいのデスクで両手で頬杖を突いている男が端麗な顔に満面の笑みを貼り付けた。
「あ、永琉先輩と今日も目が合っちゃった。やっぱり俺達って運命の赤い糸で結ばれてますね」
何言ってんだこいつ。何言ってんだこいつ。何言ってんだこいつ。
こちらの心の温度が氷点下に達しているなんて露程にも知らない新入社員がキャーキャー騒いでいて、「平野王子」なんて悪寒の走る単語を製造している。
「おはようございます、永琉先輩」
「おはよう平野」
「今日も綺麗ですね」
「そういえば昨日、平野が退社した後に平野の担当している漫画家さんから電話あって…「今日も綺麗ですね」」
「平野が出勤したら折り返し連絡欲しいって伝言預かって…「今日も綺麗ですね」」
「……」
「今日も綺麗ですね」
「もう聞いた。しかも四回も」
「あ、良かったー、てっきり永琉先輩に無視されてると思っちゃいましたー。あの漫画家さん俺と話したいだけって時が結構あるんですよね…あ、こんな事言ったら永琉先輩妬いちゃう?」
「全然」
「なーんだ」
“残念”
向かいの席から腕を伸ばして私のデスクにあるビターチョコレートを平然と窃盗した男は、チョコレートを口に含んで包み紙を頬杖を突いているデスクに落とした。おい、そこ部長のデスクだぞ。
いつもこうだ。こっちが嫌悪感100%を示していても、何のダメージも喰らっていないといった様子で、この男は整い過ぎている顔の表情を一切乱さない。
常に余裕風を吹かせていて、フルボッコにしてやりたい位生意気野郎なのにやたらと上司に好かれている。正確には、私以外の人間からは漏れなく好感と支持を集めている。
「そういえば永琉先輩、昨日も俺からのメッセージ無視しましたね?」
「無視してるんじゃなくてあんたを友達に追加してないだけだから」
「えー、超傷付くわ。…どうしよう、もう俺今日仕事できないかも」
「あっそ、それなら良かった。平野が仕事できない間に私は自分の業績上げられるわー」
「うっわ、ひどーい」
あからさまな棒読み台詞。これっぽっちも心がこもってないし、そもそもこいつは傷付いてすらいないだろう。ていうか傷付く以前として心という概念すらなさそうだな。
その証拠に、しっかりとセットされたグレー系のアッシュに染められた髪をクシャリと掻き乱しながら、私のデスクの隣にある己のデスクに着席して欠伸をかいている。これが心を傷つけられたばかりの人間が見せる態度かよ。
全然関係ないけどよくそんなチャラいヘアカラー会社からオッケー貰えたな。どいつもこいつもこの男の味方か?あん?
普段は遅刻ギリギリの滑り込み出社の癖に、よりにもよってどうして私が早く出社するという一年に一回あるかないかの日に限って、平野まで早く登場してくれてるわけよ。
はぁーこんな事なら十五分前に家を出るんじゃなかった。ゲームのイベント走っておくんだった。早起きは三文の得って言葉を遺した人は誰ですか、得するどころか三文以上損してるんですけど。
平野が現れるまで大きな黄色い声を上げていた新入社員をちらりと一瞥すれば、三人揃って平野なんかに骨抜きにされているって感じの表情を浮かべていた。
「やっほー、もしかして新しく配属された新入社員の子達?朝早くから出社して偉いね」
「「「……っっ」」」
顔良い奴ってつくづく得だよなぁと胸中で呟く。ヒラヒラとお手振りをして、ほぼ初対面のはずなのにもう彼女達と距離を縮めてしまえるのが平野という男の忌々しい所だ。
そういやこの男は入社した時からこうだったっけ…。
「メール送信が完了しました」とPC画面に表示されている小さなウィンドウをぼんやりと見つめつつ、平野という妖怪にファーストコンタクト及びワーストコンタクトをした日の事を
ep1. End